『普通じゃない出来事』マタイによる福音書1章18~25節
礼拝メッセージ · 2022/12/18
イエス様が誕生するときには、普通じゃない出来事がたくさんありました。それによってイエス様が特別な方——神の子・救い主——であることが伝えられています。ただ、普通じゃない出来事を経験することになった人たち、特にイエス様の両親となるマリアとヨセフは大変なこともありました。 普通じゃない出来事には、嬉しいものもありますが、恐れや不安を感じたり、悩み苦しんだり、怒りや失望を感じるものもあります。マリアとヨセフもそうでしたし、私たちにもそんなことが起こります。思い描いていたような「普通」の生活が変えられてしまうようなとき、私たちはどうすることができるのでしょうか。イエス様の父とされたヨセフの体験から考えてみましょう。

『お言葉どおりに』ルカによる福音書1章26~38節
礼拝メッセージ · 2022/12/11
昨日、めぐみ幼稚園のクリスマスページェントが行われました。初めに登場するのはマリア。イエス様の母となった女性です。女性といっても、まだ10代の少女であったようです。そのマリアは天使ガブリエルのお告げに対して「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカによる福音書1章38節)と語ることができる人でした。「私の思ったとおりになるように」とか「私の願い通りにしてください」というのではなくて、「神さまの言葉どおりに、私の身に起こることがなりますように」と言うことができた。その言葉が語られるところに、救い主がお生まれになったのです。

運命の逆転
週報の巻頭言 · 2022/12/10
イエスの母となったマリアが天使から救い主を身ごもることを予告された後、親戚のエリサベトを訪ねたときに歌ったとされるのが「マリアの賛歌(マグニフィカート)」です。 私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。 この卑しい仕え女に目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。 力ある方が私に大いなることをしてくださったからです。

『一人の祈り、みんなの願い』ルカによる福音書1章13~17節
礼拝メッセージ · 2022/12/04
エリサベトとザカリアは、不妊の女と口の利けない男という恥を受けていました。ヨハネと名づけられる子どもの誕生は、その「恥を取り去られる」出来事でした。神は私たちの恥を取り去ってくださる方です。イエスはその恥が取り去られるまで、私たちと共に恥を担ってくださいます。ザカリアとエリサベトの喜びと楽しみが、多くの人の喜びにつながっていったように、一人の祈りは、みんなの願いに向けて叶えられます。イザヤ書11章で語られたような、救い主が作り出す新しい世界に向けて、一人ひとりの祈りが叶えられていくという希望が、クリスマスの出来事には込められているのです。

アドベントクランツ
週報の巻頭言 · 2022/12/03
12月24日のクリスマス・イブまでの約4週間をアドベント(待降節)と呼びます。アドベントはラテン語の「到来」という意味の言葉が語源となっており、昔の人々が救い主の到来を待ち望んだように、イエス・キリストの誕生を迎えるための準備をする期間として過ごします。それと共に、主イエスが再びこの世に来られることも覚えます。教会では毎年、この期間にアドベントクランツを飾ります。常緑樹の葉を土台にして、その上に4本のろうそくを立てます。日曜日が来るたびに一つずつろうそくに火を灯し、クリスマスが近づいてきていることを表します。

『神の到来を待ち望む』イザヤ書35章1~10節
礼拝メッセージ · 2022/11/27
イザヤ書35章は「神による回復」を告げます。この章は、一つ前の34章とセットになっており、そこでは「神の審判」が語られています。「審判と回復」というテーマは、イザヤ書の中で繰り返し語られています。「神によって裁かれた民が、神によって回復させられる」。それが、預言者イザヤが告げた中心的なメッセージでした。神様が罪を裁くことによって、回復が可能となります。神様に祝福され、生命に満ち溢れた、あのエデンの園のような世界を、この地に実現するために、神様は人間の罪を裁き、「神を愛すること」と、「隣人を自分のように愛すること」へと立ち返らせるのです。

喜び、喜ばれ、喜び合う教会
週報の巻頭言 · 2022/11/26
11月23日(金)、3年ぶりに北陸伝道交流会が開催されました。今年は福井教会を会場として、金沢教会から15名、富山小泉町教会から8名、福井教会から8名が参加しました。福井教会は会堂を取り壊し、牧師館のリビングで礼拝をしていますが、さすがに居間だけでは入りきれないので、外に張ってある大型のテントも使いました。あいにくの雨模様でしたが、天から降り注ぐ恵みを思い、同時に会堂の必要性も強く感じさせられました。

『すべての顔から涙が拭われる日』イザヤ書25章4~10節
礼拝メッセージ · 2022/11/20
人は誰もが、その生涯を終えるときを迎えます。どれほど人類社会が変化したとしても、例外なく誰もが経験することが「死」です。しかし、死に対する向き合い方は、みんなが同じではありません。今日は聖書の信仰が語る死について、共に読みたいと思います。それは同時に、死に打ち勝ち、生命を与える神様のことを考えることにもなります。

私たちを神から引き離すことはできない
週報の巻頭言 · 2022/11/20
死は無慈悲にも故人を隣人や神から引き離します。それによって、故人が孤独と忘却に引き渡され、失われた者、忘れ去られたものとなるならば、そのような死は罪に対する罰だと理解されていました。人間は自分を隣人や神から引き離す「死の力」に対して無力でした。しかし、旧約聖書において、神は死に対しても優越しておられる方だと告白されます。預言者アモスも、「たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、わたしは、そこからこの手で引き出す。」という神の宣言を伝えています。(アモス書9章2節)

『神様が守ってくださる』サムエル記上17章37節
礼拝メッセージ · 2022/11/13
ダビデさんは、身長3mもあるゴリアトさんと戦おうとしました。他の誰もが「決してかなうはずがない」と思っていたのに、ダビデさんだけは必ず勝てると信じていました。なぜなら、ダビデさんはこれまでライオンや熊と戦ったことがあったからです。羊の群れを襲おうとするライオンや熊にも、ダビデさんは一人で立ち向かい、やっつけてきました。だから、ゴリアトさんにも必ず勝てる、と思ったのです。 ダビデさんは信じていました。「ライオンの手や、熊の手から私を守ってくださった神様は、この戦いでも守ってくださる」と。神様はいつも私たちと一緒にいて、守ってくださる方です。ダビデさんは、ライオンと戦うときも、熊と戦うときも一緒にいて、守ってくださった神様のことを信じていました。

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