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私たちを神から引き離すことはできない

Germán RによるPixabayからの画像

 

死は無慈悲にも故人を隣人や神から引き離します。それによって、故人が孤独と忘却に引き渡され、失われた者、忘れ去られたものとなるならば、そのような死は罪に対する罰だと理解されていました。人間は自分を隣人や神から引き離す「死の力」に対して無力でした。しかし、旧約聖書において、神は死に対しても優越しておられる方だと告白されます。預言者アモスも、「たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、わたしは、そこからこの手で引き出す。」という神の宣言を伝えています。(アモス書9章2節)

 

新約聖書では、このような信仰がさらに進んで、既に死の力は神によって打ち破られたのだ、と告白されるようになりました。それはこの世において部分的に起こったことですが、イエス・キリストの復活において、既に決定的な事実として現れたのです。イエスは十字架にかけられ、死の力に完全に引き渡されました。それは私たちに代わって、神から見捨てられ、人々から見捨てられるという恐怖と苦痛を味わうことでした。そうすることでイエスは、私たちが負わされるどのような恐怖や苦痛も私たちと共に担い、どれほど私たちが孤独で、人とのつながりを断たれているような時でも、また神からも見捨てられているように見える時でも、いつも私たちと共にいてくださることを約束されました。伝道者であったパウロは、「神がわたしたちの味方である」ことを知り、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された」神の愛を知り、このように告白しています。

 

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章38~39節)

 

私たちも、主イエスと共に、先に召された方々のことを覚え続けます。

 

牧師 杉山望