人生には、突然の嵐に見舞われるようなことや、真っ暗な闇に覆われて先が見えなくなるようなこともあります。恐れを感じ、もうだめだと諦めそうになるそのときに、神はどこにいて、私たちに何を語っているのでしょうか。イエスと弟子たちが経験した出来事から考えてみましょう。
今週も神学校週間として、3つの神学校とそこで学ぶ神学生を覚えて礼拝を献げ、献金を献げます。神学生は「献身者」と呼ばれます。自分の人生を神に献げた人、ということです。しかし、神学生や牧師だけが「献身者」なのではありません。神に従って生きるならば、私たちは誰もが献身者だからです。今日は献げるということについて、またそれが何を目指し、何を生み出していくのか、ということをご一緒に考えましょう。
イエスにとって最後の食事は過越の食事となりました。それは12人の弟子たちとの最後の食事でもありました。福音書は、この食事について詳しく述べています。後に主の晩餐式として教会はこの出来事を覚え続けますが、ここでイエスは私たちに何を伝えているのでしょうか。
本日は石川県知事選挙と金沢市長選挙の投票日です。日本では投票率が年々下がっていますが、やはり選挙は大切です。特に、同じ日本の石川に住んでいても、みんながみんな投票権を持っているわけではありません。それでも、選挙結果の影響は誰もが受けることになります。場合によっては、今、選挙権を持っていない人の方が大きな影響を受けることさえあります。一人の投票だけで選挙結果が変わるわけではありませんが、しっかりと考えて、権利を行使し、責任を果たしましょう。
そのような日ですから、今日は教会と政治のかかわりについて考えてみましょう。聖書は政治と深く関わっていますし、イエスも政治に目を向けておられました。「神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉は、当時の人々だけでなく、現代の価値観や優先順位をも問い直す呼びかけです。
今年もイースターの日を迎えました。イースターは、十字架で死なれたイエス・キリストが三日目によみがえられたことを記念する日です。教会にとっては、一年でも最も大切な記念日の一つですが、昨年は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、イースターの日から会堂に集まらずに礼拝をするようになりました。今年は会堂に集まり、共に復活の主を礼拝することができることを、神様に感謝いたします。…
今週は受難週です。キリスト教会では、イースターの直前の一週間を“受難週”と呼んでいます。それはイエス・キリストの十字架の死に集中し、そのことを思いめぐらせる時です。十字架はキリスト教会のシンボルとなっており、一般的にはアクセサリーにも用いられていますが、実際に主イエスが十字架刑によって殺された、ということを、私たちは受難週に思い起こします。
私たちは既に、十字架の死の後に復活があることを知っています。けれども、十字架の死は決して軽いものではありません。そのことは、主イエスが十字架の死を前にして、ゲッセマネという所で祈られた姿に現れています。…
イエス様は、時に驚くようなことをおっしゃいます。今日の箇所も、その一つでしょう。
「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29~31)
これはどのような意味なのでしょうか。…
イエス様は、神様に仕えること、また人に仕えることが大切なことであると教えてくださいました。しかしそのことはイエス様の十二弟子にとっても当たり前のことではなかったようです。ある時、十二弟子のうちのヤコブとヨハネの兄弟がイエス様に、「自分たちを弟子たちの中で特別な地位に座らせてほしい」、と願い出ました。恐らく彼らは、イエス様が玉座に着くことをイメージしていたのでしょう。自分たちがその両側に座るというのは、イエス様に次ぐ地位に就く、ということです。他の弟子たちは後からこの話を聞いて腹を立てました。きっと他の弟子たちもヤコブやヨハネのように、弟子たちの中でも高い地位に就きたいと思っていたのでしょう。…
自分の利益を重視し、他者の利益を軽視したり、無視したりする利己主義に対して、イエス様の歩まれた道はそれとは正反対でした。ある時、イエス様は弟子たちに向かって、これからご自身の身に起こることを話されました。それは、多くの苦しみを受け、ユダヤ人指導者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する、というものでした。ご自身が苦しみを受けて殺されるということから、逃れることはできない、それは必然なことなのだ、と彼は語ったのです。…
イエス様が誰かと食事をしたことは、いくつも箇所に書かれています。その中でも多くの人を驚かせたのは、徴税人や罪人と一緒に食事をしたことでした。特にファリサイ派の人たちはこれに反発しました。徴税人や罪人と共に食事をするイエス様に対して、彼らは嫌悪感さえ抱いたことでしょう。当時、共に食事をするということは、その人と同じ考えや価値化を抱いていること、仲間であることを意味しました。ですから、ファリサイ派の人たちにとって、徴税人や罪人と食事をすることは考えられないことでした。……