クリスマス、おめでとうございます。今年もクリスマス・イブの礼拝は例年に近いプログラムで行いました。聖書の朗読と賛美歌を通して、救い主の誕生の預言から始まり、マリアや東の国の博士、羊飼いたちに起こった出来事を辿りました。
それらの出来事は、マタイ福音書とルカ福音書に書かれています。ヨハネ福音書には、出来事そのものは書かれていませんが、イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということが述べられています。
イエスは人の光としてこの世に来られました。イエスが来られたのは暗闇が覆う世界です。その闇の中で輝き、闇に覆われている私たち人間を照らす光としてイエスは生まれました。…
教会で行なわれる葬儀では、『いつくしみ深き』という讃美歌がよく歌われます。これは葬儀だけでなく、結婚式でも定番の讃美歌です。そうなったのは、『いつくしみ深き』のメロディを使った歌が、小学校の音楽の教科書にも掲載された、という理由もあります。葬儀や結婚式では、讃美歌を歌ったことがない方も多く来られますが、聞いたことのあるメロディであれば歌いやすいからです。
ただ、歌いやすいというだけでは、それほど親しまれる讃美歌にはならなかったでしょう。この讃美歌の歌詞が多くの人の心に響いたことも、歌い継がれる大きな要因です。その詞を書いたのは、アイルランド人のジョセフ・スクライヴン(Joseph Scriven)でした。…
イエスは再び神殿へ上り、民衆に教え始めました。するとそこに律法学者たちがやってきました。彼らはイエスと民衆の間に割って入り、一人の女性を真ん中に立たせました。その女性は姦通の現行犯で捕まっていました。聖書の律法では、姦通を犯した人は石打の刑に処されることとなっています。
律法学者たちはイエスに問いかけました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネによる福音書8章5節)そこにいる誰もが静まり返り、イエスが何と答えるかじっと耳を傾けています。緊迫した空気が張り詰めていました。…
自然災害は時に「天罰」として語られます。災害を何かの罰として考えることは、古代から見られますし、世界各地でそのように考えられました。今回の災害は地球温暖化が大きな要因となっていますので、公には語られませんが、何かの罰であるかのように思う人もいるかもしれません。あるいは自然災害ではなく、それぞれの人生に起こった災難が、自分(たち)がしたことへの罰なのではないかと考えることもあるでしょう。災難が降りかかるのは、罪を犯したことへの報いなのだ、と考えるということです。イエス様の弟子たちもそのように考えていました。
けれどもイエス様は同じようには考えておられません。…
イエス様は、神様に仕えること、また人に仕えることが大切なことであると教えてくださいました。しかしそのことはイエス様の十二弟子にとっても当たり前のことではなかったようです。ある時、十二弟子のうちのヤコブとヨハネの兄弟がイエス様に、「自分たちを弟子たちの中で特別な地位に座らせてほしい」、と願い出ました。恐らく彼らは、イエス様が玉座に着くことをイメージしていたのでしょう。自分たちがその両側に座るというのは、イエス様に次ぐ地位に就く、ということです。他の弟子たちは後からこの話を聞いて腹を立てました。きっと他の弟子たちもヤコブやヨハネのように、弟子たちの中でも高い地位に就きたいと思っていたのでしょう。…
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。これはイエス様がご自分を信じた当時のユダヤ人たちに言われたことです。「自由にする」ということは、今は自由ではない、ということです。ユダヤ人たちはこの言葉に対して、私たちは自由だ、と反発しました。私たちは自由でしょうか。今年は新型コロナウイルスのせいで、随分と自由が制限されました。今もまだ慎重な行動が求められ、思いのままに活動することができずにいます。ただ、コロナのことがなかったとしても、私たちは自由ではなかったかもしれません。…
ファリサイ派に属するニコデモという人がいました。彼はユダヤ人の議員であり、イスラエルの神について人々に教え、神に従う生き方を指導し、またユダヤ社会の政治を主導していました。ニコデモはユダヤの人々の間で尊敬を勝ち取った人だったのでしょう。その尊敬は、規定を厳格に守り、熱心に教えを語る彼の努力のたまものでした。一方で、ファリサイ派の熱心さは人を分け隔てるものにもなっていました。ニコデモはある夜、ひそかにイエスのもとを訪ねます。そこでイエスはこう言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」…
イースター(復活祭)は、イエス・キリストが十字架にかけられ、墓に葬られてから三日目に甦られたことを記念し、お祝いする喜びの日です。教会にとっては、一年で最も大切な日の一つですが、私たちは今、外出を自粛しながら過ごしています。それは自分自身の命を守るためでもあり、同時に周りの人たちの命を守るためでもあります。今の私たちの状況とは異なりますが、イエス様の弟子たちも、外出せず、家に閉じこもっていたときがありました。それは、イエス様が十字架にかけられ、殺された後のことです。弟子たちはいつもイエス様と一緒にいました。彼らはイエス様こそ救い主であり、新しい世界をつくられる方だと信じていました。ところがイエス様が捕えられたとき、彼らはイエス様を捨てて逃げ去りました。…