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『御言葉が実を結ぶ』ルカによる福音書8章4~8節、11~15節

佐々木さんの平和構築の働き

先週の木曜日に、佐々木和之さんの活動報告会がオンラインで行われました。現在、佐々木さんはアフリカのルワンダの大学で働き、平和構築を担っていく人を育てようとしています。佐々木さんたちが作ろうとしている平和な社会とは、貧困や差別、抑圧が乗り越えられた社会であり、弱い立場にいる人たちも能力を発揮される社会であり、公正で、お互いを大切にする社会です。人間が作る社会には対立や衝突は避けえませんが、それを暴力で解決するのではなく、非暴力で解決する能力をもつ社会を作るために、佐々木さんは若者たちを指導しています

 

佐々木さんは、このような社会を作ることはとても大きな話であり、一人の人生の中で実現できるものではない、と言っておられました。だからこそ、そのような平和な社会を作るために課題に取り組む人々のネットワークが広がり、新しい世代にその働きを引き継いでいくことが必要です。

 

今日は佐々木さんたちの活動を詳しく紹介する時間がありませんが、その働きを通して深刻な対立を抱えていた人たちが和解する出来事が起こりました。ただ、そこに至るまでには何年もの長い時間といくつもの取り組みが必要でしたし、関わりをもったすべての人が和解に至ったわけではありません。それでも神様の言葉に励まされ、神様の約束を信じ、忍耐強くなされた働きから、平和が作られています

※佐々木さんの活動についてはこちら

 

「種を蒔く人」のたとえ

今日の箇所は、「種を蒔く人」のたとえと呼ばれるたとえ話です。イエス様の時代には、広い範囲に種を蒔くために、腕を広げて種を蒔きました。そのため耕していないところ――畑の周りの道端や、石だらけのところ、茨が生えているところ――に落ちる種もありました。

 

道端に落ちた種は、そこを通る人に踏みつけられたり、鳥に食べられたりして、芽を出すことができません。石だらけのところに落ちた種は、芽を出すことができても、根を伸ばすことができないので、水気が足りず、日照りに耐え切れずに枯れてしまいます。茨の中に落ちた種は芽を出し、根も伸びますが、茨も成長して押しかぶさってきます。そうすると成長は止まり、実をつけるまで育つことができません。一方、耕された土地に蒔かれた種は芽を出し、根を伸ばして成長し、種の百倍もの実を結びます。

 

この話の内容には、新しいことも、驚くべきこともありません。それは種を蒔いた人が経験していることであり、自然の環境の中で起こっていることです。それでも「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様が言ったことで、これは大事なことのたとえとして語られたことが伝わります。そして、イエス様の話を聞いた人たちは、「この話は何をたとえているのか、イエス様はどんなことを伝えているのか」、ということを考えはじめるのです。

 

御言葉が実を結ばない場合

弟子たちはこのたとえの意味をイエス様に尋ねました。これはとても大事なことです。イエス様は、ご自身に従ってきた弟子たちの質問に答えられます。イエス様のおっしゃることがわからないときは、その意味を教えてくださるように願うことも許されています。

 

このたとえの種は「神様の言葉=御言葉」のことです。種は不思議な成長の力を秘めているものであり、その力をキリストの業における神様の隠された働きの比喩とされることがあります。ここでの神様の言葉も、神様の働きを引き起こします。種が根を下ろすことは、御言葉が人の心に受け入れられ、信じられることであり、そこに神様の働きが起こされることを現しているのです。

 

たとえのそれぞれの状況を見てみましょう。まず、道端に種が落ちた状況は、御言葉が受け入れられ、神様の働きが起こることを妨害する力が及ぶことです。それを「悪魔が来て奪い去った」と言われていますが、悪魔とは御言葉に敵対し、人を神様から引き離そうとする者です。それは超自然的な存在に限らず、神様の言葉に反することへと人を取り込もうとする様々な力のことだと考えられます。

 

例えば、「あなたは神様に愛された大切な存在である」と聖書は伝えています。しかしこの世では、「あなたは価値のない存在だ」と伝える言葉や行為があちらこちらにあります。神様の言葉が聞かれても、それを否定するような言葉や行為によって信じることができなくされ、神様の言葉がその人から取り去られるということが起こっています。それが「悪魔が来た」という状況です。

 

二つ目の石の多い土地に種が落ちた状況は、御言葉を聞いて喜んで受け入れ、しばらくは信じていても、根が伸びないために試練に遭うと身を引いてしまう人のことです。神様を信じれば、試練が何もかも取り去られるというわけではありません。逆境の中でも神様は働かれますが、私たちの方がそれに耐えきれず、御言葉から身を引いてしまうことがあります。

 

神様の助けを経験していたり、そのような証を聞いたりしていれば、なお信じ続けることができるかもしれません。けれども、そのような経験がなく、証しも知らなければ、神様の約束とは異なる状況が生じた時に、もうだめだと諦めてしまいやすいでしょう。

 

三つ目の茨の中に種が落ちた状況は、御言葉を聞いても、人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、神様の働きが起こされるまで待つことができない状況です。種には成長する力が秘められていますが、すぐに実を結ぶわけではありません。神様の言葉も、それが聞かれた瞬間に神様の働きが起こされるわけではなく、神様が働かれる時を待つことが必要です

 

現代のように、何でも早いことがいいことだとされる時代では、この状況が当てはまりやすくなります。思い煩いから一刻も早く解放されようとして、あれこれと手を伸ばします。富を求め、快楽によって満たされることを勧めてくるメッセージにも溢れています。手っ取り早い解決法のように見えるものがあちらこちらにあるからこそ、神様の言葉に身を委ねることが難しくなっているかもしれません。

 

御言葉を聞く者の視点と伝える者の視点

私たちはこのたとえをどの視点で聞くことができるでしょうか。群衆の視点で聞くならば、これは御言葉を聞くことの大切さを伝えるものとなります。神様の御言葉は良い実を結ぶ言葉です。しかし、種が蒔かれたとしても――つまり神様の言葉が告げられたとしても、必ずそれが実るとは限りません。それを聞く人の状況も重要です

 

この視点でたとえを聞くとき、私たちは自分がどんな状況にあるかと問うことになります。種が道端に落ちている状況だろうか、それとも石だらけの地に落ちている状況だろうか、茨に覆われている状況だろうか、あるいは良い土地に落ちた状況だろうか。状況は変化します。同じ言葉が語られても、みんなが同じように受け入れるわけではありません。神様の言葉を聞いて受け入れる備えができているか、ということを私たちは問われるのです。

 

ただ、その責任を一人で負うことはありません。そもそも、神様の言葉を受け入れられないような状況を、自分だけで作ったわけではないのです。そうであれば、その状況を変えることも、一人で担うのではなく、助け合う方がいい。そのために教会が与えられています。私たちは御言葉を分かち合い、証しを語り合い、共に忍耐します。種が育つように一緒に土地を耕すことを、教会という群れの中で行うのです。

 

他方で、このたとえを弟子の視点で聞くこともできるでしょう。イエス様に倣って御言葉を伝える弟子たちは、その言葉を受け入れられないことも経験します。そこではもちろん、語る者としての課題もありますが、どれほど準備をし、訓練をしたとしても、必ずすぐに受け入れられるとは限らないのです。

 

それでも、種を蒔くこと――神様の言葉を伝えることは大切な使命です。すぐには実を結ばなくても、神様の時――収穫の時が来たならば、その時の実りは100倍にもなる、と約束されています。だから、勇気を出して語り続けなさい。伝えようとするときに、挫折することがあっても、失望することがあっても、神様の言葉は豊かな実りをもたらす時と場をもっているのです。私たちは謙虚さを忘れずに、けれども決して諦めずに、忍耐をもって語り続けるのです。

 

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(8:15)

 

ルワンダで、佐々木さんたちが行っている平和構築の働きは、まさにこの種蒔きのような働きです。すぐに実りが得られるものではなく、必ず実りが得られるわけでもない。それでも、神様がそこに働かれることを信じて語り続け、働きを続けることの中で、実りが与えられています。それは100倍の実りのように、多くの人の想像を超えて大きな出来事となっています。

 

私たちも、神様の言葉を受け入れ、信じることができるように、共に自分の心を耕しましょう。御言葉と証しと分かち合うことを通して、神様への信頼を何度でも新しくしていきましょう。そしてまた、諦めることなく、忍耐をもって神様の言葉を語り続けましょう。神様の言葉に敵対する力や試練や誘惑があっても、神様の働きが起こされることに信頼して語り続けましょう。

KoneviによるPixabayからの画像