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毎週の礼拝の中で祈っている「主の祈り」は、祈りの言葉を教えてほしいと願った弟子たちに応えて、イエス様が教えた祈りです。この祈りでは、毎日の食べ物のように、具体的な必要が満たされることへの願いが述べられます。それと同じように、私たちの罪が赦されることと、私たちが罪を赦すことが願われています。毎日の食事のように、赦し、赦されることなしに、私たちは生きることができない。それほどに赦しは私たちに必要不可欠なものです。ある人は、「赦しとは福音の中心なのです」と語っています。その赦しが私たちにとってどのようなものであるのか、考えてみましょう。
神の赦し
イエス様は、赦しを求める祈りを教えられましたが、その背後には、神様は「赦しの神」である、という確信があります。その確信はイエス様だけのものではなく、聖書の民が共有していたものでした。出エジプト記34章6~7節では、主なる神様のことをこのように表現しています。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまこととに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出エジプト記34章6~7節)
神は私たちの罪と背きと過ちを赦す方である。そのことを聖書の民はずっと語り継いできましたし、自らの体験と先祖の歴史からそのことを確信させられてきました。実際、聖書に記された人間の歴史は「罪と背きと過ち」に満ちていますが、それでも神は人間を見捨てず、忍耐強く悔い改めへと導き、何度でも救い出してこられたのです。
私たち人間が「罪と背きと過ち」を繰り返してしまう、ということは神様もご存じのことです。それでも神様は私たちを赦してくださいます。そのことは決して変わらない神様の決意なのです。私たちが差し出された赦しを受け取れないときでも、神様は私たちを赦す準備を欠かすことがないのです。
この赦しによって、私たちと神様の関係は修復され、私たちは神様との親しい交わりに生きることができます。神様が私たちを愛してくださっていることを知り、神様の御言葉に導かれ、神様に愛された者として新たに生きることができます。
それと同じように、私たちは赦し、赦されることで、人間関係を保ち、あるいは傷ついた関係を修復して、共に生きることができます。人間の共同体には、赦しが必ず必要なのです。
赦さないという選択
そうはいっても、赦しというのは口で言うほど簡単なことではありません。ほとんどの人は、誰かを赦せないと思ったことがあるのではないでしょうか。それが些細なことであれば、「まあいいか」といって赦してあげることもできます。けれども、それが自分を深く傷つけることであった場合、そう簡単に赦せるものではありません。それどろこか、赦そうと思うことさえ難しいこともあるでしょう。
「赦すべきだ」、「赦さなければならない」、と思ったとしても、なかなか赦しにたどり着かない場合もあります。長い時間をかけ、葛藤を繰り返し、何度も改めて「赦そう」と決意しなければ進めないとしたら、赦しに向かう旅は、辛く、苦しい旅になるでしょう。
そこまでして赦さなければならないのはなぜでしょうか。それは神が命じられたことだから、と言うこともできます。私のことを傷つけた相手のため、ということもあります。けれども、傷つけられた私が相手を赦す理由はそれだけではありません。それは他ならぬ私自身のためなのです。神様が赦しを命じるのは、神様のためではありません。過ちを犯した人のため、という目的はあります。しかしそれと共に――それ以上に――傷つき、苦しんでいるあなた自身のために赦すことを求めているのです。
赦すことがどうして自分のためになるのか。それを考えるために、赦さないことを選び続けたらどうなるか、ということを考えてみましょう。傷つけられた私は、相手への怒りや憎しみ、恨みを抱いています。あるいは傷つけられることへの恐れや不安、不信感があるかもしれません。そのようなネガティブな感情は、その相手にだけ向かうのではなく、他の人にも向けられるかもしれません。どこかで人間関係を深く傷つけられると、新たな人間関係にも悪い影響を与えてしまうことがあります。
あるいは、自分を傷つけた相手に復讐しようと思うことがあるかもしれません。自分が苦しんだように、相手も苦しめることが正義だと考え、そうすることで自分の心も解放されると考えるのです。しかし、実際に復讐できることはそうそうありません。それどころか、実際に復讐を実行した場合、一時はすっきりした気持ちになっても、状況はさらに悲惨になってしまうのです。
相手のことを赦せない、と思っている間、私たちは自分が受けた傷を何度も追体験して、苦しむ羽目になります。どんなことでも、過去の出来事を変えることはできません。赦さない、という選択は、変えられない過去を負い続け、怒りや憎しみを持ち続け、苦しみ続けるということでもあるのです。傷つけた相手を憎み、赦さないことで、実は苦しんでいるのは自分自身でした。それは、神様が望んだ生き方ではありません。
赦しとは、手放し、自由になること
赦さないという選択は当然のことだと思われがちですが、その選択がもたらす結果を考えると、傷ついた私たち自身にとっても良い選択ではありません。アフリカには「赦すが勝ち」ということわざがあるそうです。赦すという選択が、傷ついた人にとっても、傷つけた人にとっても、その人たちが属する共同体にとっても、良い選択であることを教えているように思えます。
ただし、赦しというのは、計画的に進められるものではありません。どれくらいの時間が必要か、どのような道のりを進んでいくのか、ということが、はっきりとわかるわけではありません。そのような意味で、赦しとは、目的地までの道がわからない「旅」のようなものです。その旅を歩き続けるためには、時間だけでなく、周りの人たちの支えと、神様の導きが必要です。
南アフリカの聖公会の司祭であったデズモンド・ツツ大主教は、アパルトヘイト問題を解決するための「真実と和解委員会」の議長を務めた方です。ある時、彼に悩みを打ち明けたイングリットという女性がいました。彼女は4人の若者に暴行され、殺されかけたことがあり、長年、犯人たちの憎しみで頭がいっぱいになっていました。
彼女の話を聞いて、ツツさんは「あなたが怒りを感じるのは当然だよ」とうなずきました。そして、「事件を乗り越える努力をして、彼らを赦してあげてほしい」とお願いしました。それはイングリッドさんには到底受け入れられないことでした。
それから数か月にわたって、二人は何度も何度も話し合いました。ある時には、ツツさんが彼女に、「加害者がどんな気持ちでいるか、考えたことはある?」と尋ねたので、イングリッドさんはとても怒りました。それでもツツさんは彼女に説明しました。「あなたは怒りを吐き出さなくてはいけないよ。でも同時に、心に留めておかなくてはいけない。加害者もただの人間なんだよ。」
ツツさんは和解を促す活動をしている団体に連絡を取るように、イングリッドさんにアドバイスをしました。彼女はその団体の支援を受け、進行役がいる場所で、加害者と会うことを受け入れました。相手は刑務所に入っており、進行役もいるとはいえ、「一体どうなるのだろう?」と身震いしながら、彼女は加害者の一人の前に座りました。
二人は話し始めました。加害者の男性は、ドラッグまみれの極貧の町で育ち、暴力と虐待でひどい子ども時代を過ごしていました。その環境はイングリッドのものとは違いましたが、彼女もアルコール依存症の父親に殴られていました。そのとき彼女は初めて、加害者に共感できるものを感じました。
この会話を経て、彼女は加害者への同情を感じるようになり、また安心感に包まれました。彼女にとって、それが「赦し」でした。加害者の暴行を容認したわけではありません。ただ、加害者が悪魔でも獣でもなく、一人の人間であること――自分と同じただの人間であること――を知ったのでした。
後にイングリッドさんはこのように語っています。
「あのとき荷物を手放したことで、残りの人生の旅が、はるかに身軽で、また楽しめるものになったよ。」
赦しとは、負い続けてきた怒りや憎しみ、恨みを手放すことでもあります。抱き続けてきた恐れや不安、不信感から自由にされることでもあります。だから神様は、私たちに赦すことを教え、また求めているのです。
※『ウブントゥ 自分も人も幸せにする「アフリカ流14の知恵」』より
自分を赦し、他人を赦す
私たちは神様から赦しということを学びます。イエス様は十字架の上でこう言われました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)
消すことができないほどの深い傷を負いながら、赦しを実践する人びとの姿からも、私たちは赦しを学びます。赦しは義務として課せられているのではありません。真に人間らしく生きるため。重荷を降ろして、残りの生涯を喜んで生きるため。神様の望んだ本来の生き方へと戻っていくために、必要なことでした。
ただ、私たちを赦しの旅へと招くのはそれだけではありません。神様が「赦しの神」であること。私たちの「罪と背きと過ち」を赦してくださったこと。私たちをいつも神様によって生命を与えられた一人の大切な人間として受け止めてくださり、一人では負いきれない重荷を共に担い、新しい命を受けるようにと招いてくださっていること。それが私たちに先立っているのです。
誰かを赦す前に、私たちは自分自身を赦す必要があります。私たちに生命を与え、私たちを生かしてくださる神様が、私たちのことを愛し、赦してくださっているのです。私たちは、自分を愛し、また赦し、それと同じように、他の人たちを愛し、そして赦すのです。
そのように赦し・赦されることが続けられるなら、人間は神様と共に生きることができ、また人と人とが共に生きることができるようになるでしょう。それこそ、イエス様が教えてくださった祈りなのです。
牧師 杉山望
November, 6, 2022, Sunday Worship Service
"Forgive for Your Own Sake"
Matthew 6:5-15
The Lord's Prayer, which we pray every week during worship, is a prayer taught by Jesus in response to his disciples asking him to teach them how to pray. The prayer states the need for daily food while also addressing the desire for our debts to be forgiven and for us to forgive our debtors. Just as food is a necessity, we cannot live without being forgiven or forgiving others. Forgiveness is essential. Someone even once said that forgiveness is the centre of the Gospel. So, for today, let us think about forgiveness.
God’s Forgiveness
When Jesus taught the prayer about forgiveness, it was with a firm belief that God is the “God of forgiveness.” This conviction was not something that Jesus only had, but it is a shared belief throughout all the people in the Bible. Exodus 34:6-7 describe forgiveness as God’s character as follows:
“The Lord, the Lord, the compassionate and gracious God, slow to anger, abounding in love and faithfulness, maintaining love to thousands, and forgiving wickedness, rebellion and sin.”
(Exodus 34:6-7 / New International Version (NIV))
God is the One who forgives our wickedness, rebellion, and sin. The people and stories of the Bible continually remembered this as they looked back on their own experiences and the history of their ancestors. Indeed, the stories recorded in the Bible are full of humankind’s iniquity, transgression, and sin. But at the same time, they declare how God has never abandoned humankind and how God patiently delivered and led the people to repentance.
God knows that we humans repeat “wickedness, rebellion and sin”. Yet still, God forgives us. This is an unwavering decision made on God’s part. Even if we do not accept the forgiveness given to us, God is always ready to forgive us.
Because we are given forgiveness, our relationship with God is healed and we can live in an intimate fellowship with God. Because of forgiveness, we come to know of God’s love for us, are led in God’s Word, and can live renewed as those who are loved by God.
In the same way, as we forgive and are forgiven ourselves, relationships are sustained, broken ties are restored, and we can live together. We and our communities need forgiveness.
The Decision to Not Forgive
However, forgiveness is not as easy as it sounds. Perhaps nearly everyone has had at least one experience of finding it hard to forgive someone. If it were a minor incident, it might have been easy. But if it was a big hurt, it may have been difficult or almost impossible to even consider forgiveness.
Although we think that “we should/must forgive”, there are times when the decision to forgive is not our first option. If the process itself is long or if the decision to forgive needs to be made repeatedly, the journey to forgiveness may be difficult and painful.
So, why do we have to go to such lengths to forgive? We could say it is because God has commanded us to do so. We could also say that it is for the sake of the person who did wrong to us. But these are not the only reasons for choosing forgiveness. We forgive because that is what we need. When God calls us to forgive, it is not for God’s sake. It is partly for those who have wronged us, but more than that, it is for us. God is inviting us to forgive for our own sake. Forgiveness serves us when we are hurt and suffering.
Yet, how could forgiving others be for your own good? To think about this, let us consider what happens when we choose to not forgive. When someone has hurt us, we may feel anger, hatred, or resentment. We could also experience anxiety, distrust, and fear of being wounded again. Sometimes, such feelings may not be directed back at the wrongdoer, but at those around us. When one relationship is deeply injured, it can harm other relationships.
Or perhaps it may cause us to seek revenge on the person who hurt us. We may think that it is just to make them suffer as we have suffered, or that taking revenge would set us free. However, it is often not possible to take revenge. And if we do, we may feel better for a little while, but often the situation could become even more miserable.
When we think that we cannot forgive, we are stuck reliving the hurt that we have suffered, even though we cannot change the past. Choosing not to forgive means that we hold on to this unchangeable past as we continue to carry the anger, hatred, and suffering. By resenting and not forgiving the person who has hurt us, we are the ones who sit in anger and pain. And this is not the way that God wants us to live.
Forgiveness Is Letting Go and Being Free
The decision to not forgive is often considered a natural reaction, but when we consider the consequences, it is not a healthy choice for us to carry the hurt and stay wounded. There is an African proverb that says, “Who forgives wins.” This saying suggests that forgiveness is good for the hurting individual, the wrongdoer, and for the communities to which they belong.
Forgiveness, however, is not a thoroughly planned process. We never know how much time it will take or what path it will take. In that sense, forgiveness is like a "journey" where the road to the destination is unknown. For us to continue the journey, we not only need time but the support of those around us and God’s guidance.
Take the late Archbishop Desmond Tutu’s instance as an example. Desmond Tutu, an archbishop of the Anglican Church in South Africa, served as the head of the Truth and Reconciliation Commission, which investigated allegations of human rights abuses during the apartheid era. On one occasion, a woman named Ingrid shared her burdens with him. She had been attacked and nearly killed by four youths. For many years, she had been trapped with bitterness and hatred toward her attackers.
Upon hearing her story, Desmond Tutu nodded and said that she had every right to feel angry. But he also invited her to try to overcome the incident and forgive them. This was something Ingrid could not accept.
Over the next several months, the two discussed the matter again and again. One day, Desmond Tutu asked her, “Have you ever thought how the attackers might be feeling?”, which made Ingrid very angry. Yet, he explained to her that she should let her anger out and remember that her attackers were just people too.
Then, Desmond Tutu advised Ingrid to contact an organization that works to promote reconciliation. With their support, she agreed to meet with an attacker in the presence of a facilitator. Although he was in jail and a facilitator was present, she wondered, "What in the world is going to happen to me?" Shuddering, she sat down in front of one of her attackers.
They began to talk. The attacker had grown up in an extremely poor, drug-ridden town and had suffered a terrible childhood of violence and abuse. Although her circumstances were different, Ingrid, too, had been beaten by her alcoholic father. It was at that moment that she felt, for the first time, that she could relate to her attacker.
Through her conversation, she began to have compassion for her attacker and felt a sense of relief, which she later recognized as forgiveness. Of course, she did not approve of what had been done to her. She simply knew that her attacker was not a demon or a beast, but a human being – just like herself.
She later recalls her journey saying that letting go of her baggage made the rest of her life’s journey lighter and more enjoyable.
Forgiveness means letting go of the anger, hatred, and resentment that we may have carried. It is about being set free from the anxiety, distrust, and fear that we have held onto. Therefore, God calls and teaches us to forgive.
Forgiving Ourselves and Forgiving Others
We learn about forgiveness from God, as Jesus said the following on the cross.
“Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” (Luke 23:34 / NIV)
We also learn from those who have practiced forgiveness, despite their deep wounds that cannot be erased. Forgiveness is not a duty. We need forgiveness to live fully and joyfully. We need it to lay down our burdens so that we can be restored in the way God calls us to live.
Moreover, we are called to the journey of forgiveness because God is the “God of forgiveness”. The One who forgives our “wickedness, rebellion and sin” and fully sees us as precious lives created in dignity invites us to put down the burdens that we cannot bear by ourselves. We are invited to receive new life. The compassionate gracious God is the One who calls and goes before us on the road to forgiveness.
But before we forgive others, we need to forgive ourselves first. And we are moved to do that because God, who gives and sustains our lives, loves, and forgives us. Likewise, we are to love and forgive ourselves and others.
If we continue to forgive and are forgiven in this way, we will be able to live with God and each other, just as Jesus encouraged us through the Lord’s prayer.
Pastor: Nozomu Sugiyama
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