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『平和な世界への道しるべ』出エジプト記20章1~6節

Mikes-PhotographyによるPixabayからの画像

 

 

私たちは毎年8月に、「平和を祈る礼拝」をささげてきました。1945年8月15日に敗戦を迎えた戦争の痛ましい記憶と、アジア各国を始め多くの犠牲を強いてきた歴史を思い起こします。そのようにするのは、二度と同じ過ちを繰り返さないためであり、また、平和な世界へと一歩ずつでも向かっていくためです。

 

それでは今、世界は平和に向かっているのでしょうか。私たちの人生は、平和に向かっているでしょうか。ミャンマーではクーデターが起こり、一年半以上も軍による市民の弾圧が続いています。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は終わりが見えず、犠牲者が増え続けています。

 

戦争だけでなく、大きな災害や生活の苦しさも、身近なところで平和を脅かすものとして感じられます。私たちには平和な世界への道しるべが必要です。そして神は私たちにその道しるべを与えてくださっています。

 

 

平和な世界への道しるべである十戒

 

『平和ってどんなこと?』という絵本があります。その中では、平和はきっとこんなことだと言われています。「戦争をしない。爆弾なんか落とさない。家や町を破壊しない。」それだけではありません。「お腹が空いたら、誰でもごはんを食べられる。」「友達と一緒に勉強だってできる。」「みんなの前で大好きな歌が歌える。」「嫌なことは嫌だって意見が言える。」「思いっきり遊べる。」「朝までぐっすり眠れる。」

 

戦争は最大の暴力であり、平和を破壊します。でも、戦争が起こる前から平和はだんだんと壊されています。戦争以外のものも平和を壊しているのであり、平和が壊されていった先に戦争が起こるのです。ですから、平和を祈るときには、戦争が無くなることと共に、戦争へと向かって平和が壊されていくことも無くなるように祈ります。

 

その祈りが実現し、平和な世界を作り出すために、神が私たちに与えてくださったものが律法でした。律法は、平和な世界への道しるべなのです。神は私たちが律法の掟を行うことで、私たちがいつも幸せに生きるようにしてくださいました。その幸せは、自分だけの幸せではありません。人と人が共に生きる共同体の平和を守り、みんなで幸せになろうとするものです。

 

聖書に記された律法は、古代イスラエルの状況に合わせて定められたものもあります。そのような点で、律法を私たちに合わせて再解釈する必要はあります。それでも、律法の中心である十戒は私たちが平和に向かうための出発点であり、進むべき方向を指し示す道しるべとなります。

 

どれほど科学が進歩し、経済成長が進んでも、人間が罪を犯すという根本的なところは変わっていません。私たちが混沌とした世界に向かわないように、方向を変えて平和な世界へと向かうように、神が与えてくださった贈り物が十戒なのです。

 

 

主以外の何ものにも服従しない

 

十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)というものです。これと表裏一体の戒めは、申命記6章5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という戒めです。

 

全身全霊で神を愛することは、主なる神のほかの何ものも神としない、ということです。平和宣言では、それを「主イエスのほか何ものにも服従しない」ということだと説明しています。どのようなものであっても、主に並ぶものとしない。主の戒めを差し置いて、他の何かに従わない。それは当たり前のことではありません。

 

例えば、現代において経済が多くの人を服従させています。経済の力は具体的に政治や軍事にも関わり、人の命にも係わるものとなっています。それを「神」だと思っている人はいなくても、神の言葉を聞き、神の戒めのもとで経済活動が行われているわけではありません。そのため、経済は神から独立して人を支配するものとなっています。

 

律法は経済活動に制限をかけていました。たとえばレビ記25章では、土地に安息を与えるために、7年ごとに収穫を禁止する年を定めています。また50年目は「ヨベルの年」として、収穫を禁止することに加えて、売却された土地を元の所有者に返すことも定められました。さらには、貧しい人から利子も利息も取ってはならないこと、貧しさのために奴隷となっていた人もヨベルの年には解放されることも定められました。

 

人間の好き勝手に任せていたら、平和な世界は壊されてしまいます。人の命と尊厳が脅かされ、人が生きるための環境も失われてしまう。だから、定期的にリセットさせて、もう一度、そこからやり直させるように定められたのです。その規定を現代にそのまま適用することはできないとしても、これは平和な世界へと向かわせようとするものでしょう。経済活動であっても、

 

主なる神のほか何ものにも服従しない、ということは、どのようなものであっても、神無しには考えない、ということです。道を間違えやすい私たちが迷子にならずに、平和な世界に向かうためには、道しるべが欠かせないのです。

 

 

目的の違い

 

先週には、北陸や東北で記録的な大雨が降りました。石川県の梯川も含めて、9つの県の45の河川で氾濫が発生、土砂災害も14件発生するなど、大きな被害が出ました。気候変動の影響が、だんだんと強まっていくことを実感させられます。今後、影響はさらに大きくなっていきますので、そのことを考えると気が滅入りそうになります。

 

気候変動は戦争と共に、世界的に平和を脅かす深刻な問題です。ただ、それらは全く無関係な事柄でもないように思えます。神は人と人の間に貧富の格差が拡大し続けたり、人が地球の環境を破壊しすぎたり、資源を無制限に貪ったりすることを制限しておられました。そのような神の戒めに従っていれば、気候危機も、戦争の危機も、これほど大きくはならなかったのではないでしょうか。

 

現在のグローバル経済は、神無しに回っています。そうすることで、生産性を高め、経済成長を続け、巨大な力を得ることができた人たちがいました。けれども、その背後では人の命が不平等に扱われてきましたし、人間が生きやすい環境を破壊し続けてきました。その代償は、とても大きいのです。

 

律法は人と人が共に生きる共同体の平和を守るために必要なことを教えています。他方、グローバル経済が発展する一方で、共同体の力は衰えていき、共に生きるということが当たり前ではなくなってしまいました。

 

平和を作り出すためには、人は人と協力し、また環境を守ることが必要不可欠です。けれども、現代の経済はそれを壊してしまった。このようなことになるのは、現代の経済が無限の経済成長を求めはしても、人を救うことは目的にはないからです。

 

経済には経済の役割と目的があります。それぞれの分野には独自の役割と目的があります。本来、持っていない役割や目的を求めることは難しいのかもしれません。だから、神無しでは問題が解決できず、混沌へ向かう道を変えられないのです。平和な世界に向かう道しるべとなるものは、少なくとも経済ではありません。このような状況だからこそ、十戒に立つことが改めて必要となっているのです。

 

 

恵みをいただき、分かち合う

 

十戒の第二の戒めでは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。」と告げられています。これを受けて「平和宣言」では、「国家、民族、イデオロギー、経済、富、宗教的政治的権威、自由と正義、道徳、良心、感情、感覚、生命、自分自身、そして愛する者たち。これら一切は、服従の対象ではない。」と宣言します。

 

それは、ここに挙げられたものを軽んじることではありません。そのどれ一つとして、神と並ぶものとせず、神の言葉と戒めから離れたものとはしない、ということです。どのようなものに対しても、神が示す平和への道しるべを決して手放さない、ということです。

 

神の言葉と戒めを忘れ、そこから離れたとき、私たちはその罪を子孫に三代、四代まで問う、と告げられています。しかし、戦争も、気候変動も、その代償は三代、四代だけでは償えないかもしれません。

 

この言葉を聞くと、アメリカの先住民族で語られてきた格言を思い起こします。「どんなことも七世代先まで考えて決めなければならない。」先住民族の人々は、たとえ1本の木を伐る時でも、7代先の子孫のためになるか、子孫が困らないか、ということを基準にして議論し、選び取ってきたといいます。このような生き方から、本来の人間の在り方を考えさせられます。

 

神はこう言います。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章6節) 平和な世界への道しるべは、それに従えば幾千代にもわたって幸せに生きられるものです。神はそれほどの恵みをすでに用意してくださっていました。私たちは神の恵みを感謝して受け取り、喜んで分かち合い、共に生きるのです。

 

牧師 杉山望