· 

無理ゲー社会を生きる

heinzremyschindlerによるPixabayからの画像

 

昨年、『無理ゲー社会』という書籍が評判になりました。まだ読んではいませんが、このタイトルが強く印象に残りました。「無理ゲー」というのは、「難易度が高く、攻略不可能なゲーム」という意味です。現代の日本は豊かで自由な社会になったはずであり、誰もが自分らしく生きることができるはずでした。ところが、現実に自分の思いのままの人生を送ることができるような人はほんの一握りしかいません。激しい変化、複雑化する社会、急激な変化に完璧に対応して初めて、豊かさと自由が得られる。そんなのは「無理ゲー」だという指摘に共感してしまいます。

 

イエスが生きた時代、ガリラヤの人々も現代とは異なる「無理ゲー」に直面していました。社会的な富と力は、人口の1~2%の人々が独占し、ガリラヤの人々は重い税金を取り立てられ、ギリギリの生活をしていました。災害や紛争、病気や怪我によって収穫が少なくなればすぐさま借金まみれになり、土地や畑を売るだけでは足りず、身売りをせざるをえなかったり、日雇い労働者として使い捨てにされたりする人が少なくありませんでした。そのような中で律法を完全に守れば救われる、という宗教指導者たちの教えは、「無理ゲー」そのものでした。

 

「無理ゲー」の論理では、どうやってもゲームに勝利するのはわずかな人で、圧倒的多数は敗者とならざるを得なくなります。イエスは無理ゲーに勝利することを教えたのではありません。敗者のレッテルを貼られていた人も、神が命を与えたかけがえのない存在であることを明らかにしました。また、共に食事をすることで、イエスの友であることを示されました。ガリラヤの人々は、持っている物を共有するなど、助け合いながら生きていましたが、そのような人々の間にこそ、神の国があるのだ、とイエスは語り伝えていったのです。

 

牧師 杉山望