「復活の出来事の光の中で、イエスの荊冠は栄光の輝きを取り戻す」。被差別部落解放とキリスト教について論じた神学者・栗林輝夫は著書『荊冠の神学』の中でこのようにイエスの復活といばらの冠(受難)の関係について述べています。
「聖書記者は、イエスが荊冠をかぶらされて処刑された数日後に、神によって『よみがえらされ』、弟子たちにその姿をあらわしたと証言し、神がイエスを見捨てなかったことを述べる。初代教会の信仰において、律法によればアウトカースト*として否まれたイエスの側に、神は立たれていた。復活の出来事とは初代教会にとって、イエスの解放的宣教の勝利であり、イエスの生涯に示された『神の国』の始まりであった。パウロは、この事実に熱狂し、『死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか』と叫ぶ。イエスの苦難、いや被抑圧者らの荊冠の棘は、こうして抜き去られた。……抑圧の支配する古き時代は終わり、新しい時代がイエスの復活とともに始まった。ペテロは主イエスを裏切ったという悔恨の意識から解放され、再び神の国を求める者へと向けられ、創りかえられた。復活のゆえに、迫害に対する恐れは止み、勇気が生まれた。復活の出来事はイエスの弟子集団に徹底的な改変をもたらしたのである。」
*アウトカースト……劣った集団として分離され、普通・一般の外に放逐された集団のこと
(『荊冠の神学』栗林輝夫、新教出版社)
神はイエスの受難を通して、この世で差別され、抑圧されているあらゆる人の苦しみをわが身に受けられました。そしてその苦しみが終わりではないこと、そこから解放される日が来ることを、イエスの復活が宣言します。「神の国とは、差別も抑圧もない『新しき天と新しき地』である」。誰一人取り残されず、上下も貴賤もなく、誰もが尊敬される世界への希望を、復活の光は今も告げ知らせています。
牧師 杉山望
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