· 

平和を作り出す正義

Saasha MashirovによるPixabayからの画像

 

先週、ロシア軍がウクライナに対して武力侵攻を開始しました。日本も含めた世界各地から非難の声が挙げられ、武力侵攻へのデモも行なわれています。日本バプテスト連盟理事会からも、「ロシアのウクライナ軍事侵攻に深く憂慮し平和を切に求める祈り」が公表されました。武力行使が即座に中止され、対話交渉によって平和と和解に向かう道を歩むことを求めつつ、命が守られるよう主に祈りを合わせます。

 

旧約聖書はヘブライ語によって書かれました。「平和」を表すヘブライ語“シャローム”は、「調和と完全、健康と繁栄、統一性とバランスが存在すること、という積極的意味」*をもっています。それは神と人、人と人、人と自然、そして自分自身とのあらゆる関係があるべき状態にある、ということです。そのような平和は、正義なしには作り出すことができません。何が「正義」かということは、立場によって正反対のことを意味することもありますし、暴力の正当化にも使われますが、平和を作り出す正義とは平和的な方法しかありえず、武力によって平和を作り出すことはできません。

 

また、聖書が示す「平和」を作り出すためには、武力侵攻を中止するだけでも不十分です。今は新自由主義グローバリズムの世界となっていますが、いわゆる「南北格差」は拡大する一方であり、各国内でも社会保障が削減され、格差と貧困が広がっています。地球の資源は使い尽くされつつあり、人の生きる環境も、世界の生態系も、深刻なダメージを受けています。その反動のように、排外主義的なナショナリズムも湧き起こっています。直接的に武力行使が関わることがなくても、これらも平和を破壊する不正義であり、これらのことを解消することも、平和を作り出すために必要な正義なのです。

 

現在の資本主義世界経済は、「中心」と「周辺」という階層を構造化してきました。「中心」は常に「周辺」から収奪することによって発展してきました。イエスは周辺化され、抑圧と収奪に晒される地に生まれ、生きられました。イエスの宣べ伝えた神の国は、このような構造から脱していくイメージを伴っているように思えます。

 

*『聖書の正義 イエスは何と対決したのか』(クリス・マーシャル著、片野淳彦訳、いのちのことば社、2021)より引用

 

牧師:杉山望