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死によっても失われない

James ChanによるPixabayからの画像

今年の召天者記念礼拝では、新たにTさんを覚えることとなりました。Tさんは1930年に大阪で生まれ、戦時中には女子勤労挺身隊となり、空襲も経験されました。1955年に大阪教会でバプテスマを受けてから、生涯を「信仰の人」として生きられ、教会を愛し、忍耐強く神と人とに仕えてこられました。ツギさんは入院中に、同じ病室の人たちにイエス様のお話をよくしておられました。前牧師がお見舞いに行くと、Tさんは看護師にも、同じ病室の人にも、「うちの牧師なのよ」と自慢しれおられました。晩年は次男の助けを受けながら、ご自宅での生活を続け、可能なときには礼拝にも来ておられましたが、今年の8月5日、主のもとへと召されました。

 

マルコによる福音書12章27節には、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」というイエスの言葉があります。ある神学者はこの言葉から「イエスは人間の死後の運命について大変無関心である」、と考えました。けれども、イエスは死後について無関心だったのではありません。先の言葉は復活について語られた箇所であり、神がイスラエルの祖先である「アブラハム、イサク、ヤコブの神」である、という言葉も引用しています。神はすでに死んでいる人びとの神でもある。死んでいると言われている人も、神と共にあるので、その人びとも死によって引き裂かれてはいないのです。

 

ユンゲルという神学者は、神と共なることこそが、生きていようと、死んでいようと命である、と語っています。死の本質は関係性の喪失であり、そのことは私たちにとっていつも大きな痛みと悲しみをもたらします。私たちの罪は肉体的な死以外のところでも様々な関係性を壊し、失わせます。しかし、全ての罪を負って十字架に架かられたイエス・キリストの死によって、死は葬られました。イエスの復活とは、関係性の回復です。死によっても、関係性は失われない。そこに希望を見いだすことができます。

 

『キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも

 主となられるためです。』(ローマの信徒への手紙14章9節)

 

牧師:杉山望