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差別された少数者の目

Leroy SkalstadによるPixabayからの画像

私は3年前から日本バプテスト連盟の靖国神社問題特別委員会に所属しています。委員になったのは、前任地である札幌教会におられた同委員のお一人から何度も誘われて、断り切れなかったという面もあります。それでも時間を見つけては、靖国問題や、同委員会が取り組んできた天皇制の問題について少しずつ学んでいます。連盟では、天皇制問題についてもたびたび声明を発表してきましたが、象徴天皇制にも疑問をもたず、それを支持する方も連盟諸教会の中には少なくないかもしれません。

 

被差別部落解放問題に長く取り組んでおられた栗林輝夫という神学者がいました。栗林氏は著書『荊冠の神学』の中で、天皇制と日本のキリスト教についての木田献一氏の見解を次のように要約しています。

「天皇は現人神、神の化身として、これまで日本の世俗諸権力を宗教的に神聖化する機能をもってきた。そして天皇制は歴史のなかでつねに多数派を正しいものとする一方、少数者を過酷に差別する方策を援護してきた。多数派の正当性は天皇によって宗教的に神話化され、社会の秩序は頂点にある天皇への近さを尺度として測定されてきた。そうした論理は一見、非常に合理的でありながら、これほどに排他的で、差別的な体系はあまり類をみない。……もしこうした天皇制の差別性に気づくことがなければ、日本のキリスト教信仰は重大な問題性をもっている。」

 

栗林氏は、キリスト者が信仰の内側に天皇神学を受け入れてしまうことを、重大な問題だと指摘します。実際、キリスト教も人種・民族間の優劣を正当化したり、性差別を肯定したり、権力者による絶対的な支配を容認したりしてきました。そのような排他的で差別的な「信仰」を批判できないのであれば、外側の天皇制だけを批判しても、天皇制からの解放はありえません。木田氏はこの重大な問題性に気づかせるのが「差別された少数者の目である」と言います。私には、その目はナザレの人として生きられたイエス様がもっておられた目でもあるように思えます。その視線を借りることで、私たちもイエス様の目に近づき、その福音をより深く知ることができるのではないでしょうか。

 

牧師 杉山望