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包括的で、時間のかかる平和

PortraitorによるPixabayからの画像

今月は“平和月間”として過ごしてきました。「平和」といっても、それが表すことは様々です。アフリカのルワンダで働く「佐々木さんを支援する会」の会報“ウブムエ”で、西南の須藤教授は聖書における平和が表すことについて、このように書いておられます。「(マタイ福音書5章9節の)『平和を造る人々は、幸いである』の『平和を造る人』という原典の独自のギリシア語は、ユリウス・カエサルが暗殺される時に剣を帯びていなかったために、彼を称賛する表現として使われており、紀元後2世紀末のコンモドゥス帝が『世界を平和にする者』と呼ばれています。つまり、この言葉は、元来世界を武力で支配する皇帝の称号であったものが、イエスによってローマの軍事的暴力に日常的にさらされているガリラヤの民衆に逆説的に当てはめられているのです。平和を造るのは世界帝国の皇帝ではなく、草の根の民衆なのです。そして聖書における平和は、単に戦争がない状態を表すのではなく、欠けがなく、どこも損なわれておらず完全で、無病息災、平穏無事な状態ないし関係を表す包括的な概念であり、文脈によって民の安寧、弱者の保護を含む社会的秩序、個人の健康、幸福、また人間と被造世界の関係をも表すことができるダイナミックな言葉です。」

 

佐々木さんはルワンダの大学PIASSの平和紛争学科で教鞭を取り、今年の「和解の理論と実践」という講義の最後で、学生たちと学んだことの分かち合いをしました。そこで明らかになったのは、「学生たちの多くが、以前は『和解イコール赦し』、すなわち、対立している双方が赦し合うことにより、調和的な関係を回復すると単純化して考えていたこと、しかし、授業を通して、和解のプロセスがそれだけではなく、被害者・加害者双方の心の癒し・人間性の回復、真実を明らかにし承認する取り組み、加害者が罪に向き合い、その責任を引き受けるという、広い意味での正義の取り組みを包含した、困難かつ時間のかかるプロセスであると理解したこと」でした。

 

「平和」も「和解」も単純ではなく、簡単に実現もしません。それでも、主イエスは包括的な平和を造り出すために全てをささげ、その道に従ってくるように、私たちを招いています。