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まだ分かっていない

Yerson RetamalによるPixabayからの画像

先週発行された『宣研ニュースレター』の巻頭言で、朴思郁所長がコロナのパンデミックに対する理解の助けとして、二人の言葉を紹介していました。

 

一人はトム・ライトで、彼は「新型コロナのパンデミックに直面して、まず嘆きと祈りの時が必要である」と力説します。「『嘆くという祈りに時間』を費やすならば、自分がとにかく言いたかったことを単純に繰り返したものとは異なる、『新しい光(観点)』が与えられるというのです。そして、彼は、新型コロナのパンデミックを自然な状態として『一種の捕囚、一種の断食であり、自分たちにはまだ分かっていない瞬間、自分たちのコントロールすることのできない瞬間』として受け止め、『このような瞬間に、私たちは内的な神の三位一体の生に捕らえられている』と言います。そして、『自分たちにはまだ分かっていない(not-knowing)』ということを知ること自体が、私たちのいるべき場所であると言います。」

 

祈りは神様とのコミュニケーションですが、神様の前で、あるいは神様に向かって嘆くことも祈りとなります。私たちは様々な制約が課され、いくつもの変化を余儀なくされてきました。1年余りが経ち、慣れてきた部分もあるとはいっても、私たちには今の状況やこれからの変化について、分からないことだらけです。分からないことは不安ですが、いけないことではありません。自分にはまだ分かっていないということを知り、そのことを尋ね求める姿勢が、神様に祈り、神様と共に生きるために大切なことでもあります。

 

二人目に紹介されたジョン・レノックスは、ウイルスに対する偏見や先入観を警戒しています。「確かにウイルス自体は、ごく小さき、取り柄のないように見えますが、実は食物網を通じて栄養物をリサイクルするという地球レベルで必修不可欠な役割を果たしていると言います。『もっと評価されるべき』であるウイルスは、生命にとって不可欠なものであり、そのうちの多くても1%(高めに推定)が病院性、つまり宿主に害になるものであると言います。」

 

パンデミックが起こったからといって、ウイルスなどいなければいい、とは言えません。神様はウイルスも含めてバランスの取れた世界を私たちへの恵みとして与えてくださったのです。