ダイナミックな平和
先日、佐々木和之さんと奥本京子さんのオンライン対談が行われました。佐々木さんはアフリカのルワンダで2005年から平和構築の働きを続けて来られた方です。奥本さんは大阪女学院大学の教授で、日本平和学会の理事でもあり、東北アジア(日本、中国、北朝鮮、韓国、モンゴル、ロシア)の和解と平和のための活動もしておられる方です。
アフリカとアジアで、それぞれに平和を研究し、平和構築の働きを担って来られたお二人が語る平和のイメージは、私に新しい視点を与えてくれました。奥本さんが考えておられる平和は、「ダイナミックな平和」です。「平和がきたらいいね」と言うときにイメージするユートピア的な世界を「平和」としてイメージするのではなく、平和を作り出していくプロセスそのものを「平和」として考える、というのです。そこでは人間同士の生々しいやり取りがなされ、いくつものプロセスを経へ変化が起こります。そのプロセスの一つ一つが平和そのものなのだ、という視点は、とても新鮮でした。
そのようなダイナミックな平和のイメージは、「波風を立てないようにする」ということとは正反対です。言いたいことをぐっとこらえたり、もやもやした気持ちを押し殺したりするのではなく、衝突や対立が表面化するとしても、互いの違いに向き合っていく。それは時には嵐のように激しいものとなるかもしれません。それでも、それを暴力に頼って抑え込むのではなく、対話によって乗り越えていく。そのようなプロセスは「平和」という言葉で一般的にイメージされるものとは随分と異なるのではないでしょうか。
イエス様もこのような平和へのプロセスを進みました。イエス様はあるとき、このようにおっしゃいました。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」(マタイによる福音書10:34~35)
「もたらす」というところには「投げる」という意味の言葉が使われています。それは今すぐに、自分たちではない誰かがもたらす平和というイメージです。強力な力を使って世界をひっくり返すようなことが期待されていたのでしょう。その平和は、自分たちにとっての平和であり、敵対する人たちの平和ではありません。
しかしイエス様は、そのような意味での「平和」はもたらしません。「平和を造る人々は幸いである」(マタイ5:9)と言われたように、主イエスの「平和」は造り出していくもの、新たに生み出していくプロセスを主イエスと共に辿るダイナミックな平和でした。
見せかけの平和を暴く
そのプロセスの中で、イエス様は剣をもたらし、敵対させると言われます。それは衝突や対立がないところに、新たにそれをもたらす、ということではありません。むしろそこに既にあった衝突や対立を露わにする、ということでしょう。ここでの剣とは「分裂させること」であり、敵対させるとは「分離させる」ことを表します。イエス様は見せかけの平和を暴き、隠されたり抑え込まれたりしていた分裂・分離を露わにさせるのです。
その分裂・分離を家族関係において起こす、とイエス様は言われます。「人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに」敵対させ、自分の家族の者が敵となる、と言うのです。家族というのは社会において最も基本的で、最も小さな集団です。その家族を分裂させ、分離させるということは、社会のあらゆる集団、あらゆる共同体が分裂し、分離することになるでしょう。
このようなことは、実際に初期のクリスチャンが経験したことでもありました。クリスチャンとなることで家族と縁を切られ、共同体に居場所を失う人は少なくありませんでした。ただ、イエス様の目的は、クリスチャンとなった人を家族と敵対させ、家族と対立する新たな集団として教会を作る、ということではなかった、と私は考えています。それが目的であれば、結局は分裂と敵対で終わってしまいます。また、新たに作られた教会にも衝突や対立が起こっていたことがパウロの手紙からもはっきりしているからです。
平和をプロセスとして考えるならば、分裂や敵対、衝突や対立も、そのプロセスの一段階だと考えるべきでしょう。それを起こしたり、露わにしたりすることが目的ではないのです。そのプロセスを通って、人々が命を得るところまで進んで行くことが目的なのです。
現実として、人間社会には繰り返し衝突が起こりますし、様々な対立があります。人が十人いれば十通りの考えと価値観がありますし、利害関係も様々です。その中で生じている格差や差別、あるいは支配関係や暴力構造を無視して「平和」を語っても、平和のプロセスを進むことにはなりません。
そのことは家族にも当てはまります。時折、苛烈な虐待やDVが事件となって報道されますが、それは例外的な家族だけに見られるものではありません。私たちが経験してきた、あるいは今も経験している家族の中でも、衝突や対立が起こることはあるでしょう。目に見える形か、見えない形での暴力や支配関係が生じることもあるでしょう。そんなことが全くなく、みんなが尊重され、平等に扱われてきたならば、それは幸いなことですが、そうではない家族は今も昔も当たり前に存在しています。
抵抗して生きる主イエス
日本社会で「家族」というと、愛情によって結ばれた親密な共同体、というイメージがわいてくるのは私だけではないでしょう。あるべき家族像が色んなところが語られ、表現され、そこから外れた家族は異常なのだということで、家族の中で起きる対立からも、暴力からも、目を背けたり、それがなかったことにしたりすることがないでしょうか。
家族の関係は、愛情や思いやり、優しさや温かさと共に語られることが多いでしょう。もちろんそれもありますし、それが豊かであることを望むのですが、それだけでは語りつくせません。家族関係にも、暴力や支配が入り込み、傷つける者と傷つけられる者がでてきて、その中で生き残るための駆け引きや作戦が取られることもあります。家族がそうであれば、他の集団は――教会も含めて――きっとどれもがそのような一面を持ってしまうのです。
時には自分自身が暴力を振るい、相手を支配しようとしてしまうかもしれません。そのことに気づかず、あるいは気づきながらも止められないことがあるかもしれません。時にはそのような相手によって傷つけられながら、自分を責めたり、諦めたりしているかもしれません。それをひたすら耐え忍ぶことでしか生きられないというときもあるかもしれません。
けれども主イエスは、そうではない生き方を示しておられます。暴力や支配の関係に飲み込まれるのでもなく、それをひたすら耐え忍ぶのでもない。そのどちらにも抵抗して生きる道です。イエスは見せかけの平和を良しとはしません。その背後で傷つき倒れる人々の姿を見ておられますし、人との関係を壊してしまった罪深い人間の姿を見ておられるからです。
イエスはご自身を取り込もうとする力に抵抗して生きられました。それと共に、既に取り込まれてしまっている人々のためにあらゆる力に抵抗して生きられました。ただひたすらに神様の想いに従い、神様が描く本来の平和に向かって歩み続けました。それに背く者たちに悔い改めを求め、あるいはそれを諦める者たちに福音を告げ知らせ、平和を作り出すという新しい生き方を示してくださったのです。
主に従って命を得る
主イエスは私を愛し、大切にしてくださいます。私の名を呼び、私を見つけ出し、私の祈りを聞き、私と共におられます。その主イエスが私に従ってきなさいと言われるなら、皆さんはどうするでしょうか。主イエスに従っていきたいと思うのではないでしょうか。それは主イエスと共に、自分を襲う力、人々の命を脅かす力に抵抗して生きることでもあります。
イエス様は、自分の両親や子どもたちよりもイエス様を愛するように求めました。イエス様を愛することは、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことです。それは相応の決心を求められることです。
自分の十字架は何でしょうか。もし暴力や支配によって自分を守ろうとしてきたのなら、それが自分の十字架です。自分では大したことではないと思っていたり、忘れてしまったりしていても、それは無かったことにはなりません。自分の十字架を背負うならば、どれほど自分が人を傷つけてきたのか、ということと向き合い、悔い改め、謝罪することが伴います。それによって許される保証はありませんが、そのようなプロセスを歩もうとすることは、自分の十字架を背負って主イエスに従うこととなるでしょう。
その一方で、自分が傷つけられてきたなら、そのことが自分の十字架となるのかもしれません。これまではそれを耐え忍び、あるいは目を逸らすことで生き延びてきたのかもしれません。それでも主イエスに従うならば、主イエスと共にそれに抵抗して生きる道を歩むのです。準備が必要です。助けも必要です。それでも、見せかけの平和に留まるのではなく、時には分裂や対立を生じさせることになっても、自分の想いを語り、相手の想いを聞き、その先に向けて平和のプロセスを主イエスと共に歩むのです。
それは自分の命を得ようとしてきた、これまでの生き方とは全く異なります。抵抗する生き方は、命を失うような危険な道に見えるでしょうし、実際に危険な道です。波風の立たない道ではなく、嵐の吹き荒れる道です。けれども、そこを主イエスに従って歩み続けるならば、私たちはかえって命を得るのです。
いつの日か、私は命を得た、と心から思えるときがくる。主イエスがそう約束してくださって、私たちに先立って抵抗して生きられ、私たちを招き、共に歩んでくださる。そのことを信じ、私たちもそれぞれの十字架を背負って主に従っていくのです。
牧師:杉山望
May, 9th, 2021 Sunday Service
" Live by Resisting "
Scripture reading taken from Matthew 10:34-39
Dynamic Peace
The other day, an online dialogue was held between Kazuyuki Sasaki and Kyoko Okumoto. Mr. Sasaki has been working on peacebuilding since 2005 in Rwanda, Africa. Ms. Okumoto is a professor at Osaka Jogakuin University, a director of the Japan Peace Society, and is also involved in activities for reconciliation and peace in Northeast Asia (Japan, China, North Korea, South Korea, Mongolia, Russia).
The image of peace given by the two people who have studied peace in Africa and Asia respectively and have been responsible for peacebuilding has given me a new perspective. The peace that Ms. Okumoto is thinking of is "dynamic peace." Instead of imagining the utopian world that you imagine when you say "I wish peace came" as "peace," you think of the process of creating peace as "peace." There is a lively exchange between people, and changes occur through a number of processes. The perspective that each of these processes is peace itself was very new to me.
Such a dynamic image of peace is the exact opposite of "keeping the waves out." Instead of holding back what you want to say or killing your muffled feelings, even if conflicts and opposition surface, you will face each other's differences. It can sometimes be as fierce as a storm. Still, instead of relying on violence to suppress it, we overcome it through dialogue. Isn't such a process quite different from what is commonly imagined by the word "peace"?
Jesus also went through this process of peace. Jesus once said like this:
“Do not suppose that I have come to bring peace to the earth. I did not come to bring peace, but a sword. For I have come to turn “a man against his father, a daughter against her mother, a daughter-in-law against her mother-in-law—" (Matthew 10: 34-35)
The word "bring" is used to mean "throw." It's an image of peace that someone other than ourselves will bring right now. The person would have been expected to use powerful power to turn the world over. That peace is peace for ourselves, not for our opponents.
However, Jesus does not bring "peace" in that sense. As He said, “Blessed are the peacemakers,” (Matthew 5: 9), the "peace" of the Lord Jesus is what is created, and it is a dynamic peace where you travel along the process of new creation with the Lord Jesus.
Uncover fake peace
In the process, Jesus says He will bring the sword and turn people against each other. It does not mean that He will bring conflict and opposition to the place where they do not exist. Rather, He will reveal the conflicts and opposition that were already there. The sword here means "splitting", and “turn… against” means "separating people". Jesus uncovers apparent peace and reveals the divisions and separations that have been hidden or suppressed.
Jesus says that He will bring the division and separation in the family relationship. “I have come to turn“‘a man against his father, a daughter against her mother, a daughter-in-law against her mother-in-law—his family members become enemies. The family is the most basic and smallest group in society. Dividing and separating the family will divide and separate every group and every community of society.
This was also what early Christians actually experienced. Many people lost their place in the community because they were cut off from their families by becoming Christians. However, I think that the purpose of Jesus was not to make Christians hostile to their families and to create a church as a new group that opposes their families. If that is the goal, it ends up with division and hostility. It is also clear from Paul's letter that there were conflicts and opposition in the newly created church.
If we think of peace as a process, we should think of division, hostility, conflict and opposition as part of that process. It's not about making it happen or exposed. The goal is to go through that process to the point where people obtain their lives.
In reality, human society has repeated conflicts and various opposition. If there are ten people, there are ten different ideas and values, and there are various interests. Ignoring the disparities and discrimination that arise in it, or the dominance and violent structure, and talking about "peace" does not go through the process of peace.
That also applies to families. Occasionally, severe abuse and domestic violence are reported as incidents, but not only in exceptional families. Conflicts and opposition can occur in the families we have experienced or are still experiencing. Violence and dominance may occur in a visible or invisible manner. It would be fortunate if that weren't the case and everyone was respected and treated equally, but it is common that such families with conflicts and opposition exist now and existed in the past.
The Lord Jesus who lives by resisting
I'm not the only one in Japanese society who thinks of a "family" as an intimate community united by love. The ideal family image was told and expressed in various places, and the family that deviated from it was abnormal, so we might turn away from the conflicts or violence that occur in the family and decide that it was not there.
Family relationships are often told about with affection, compassion, kindness and warmth. Of course, there are those things in a family, and we hope they are rich, but that alone is not enough. Violence and domination can also go into family relationships, and some can hurt another, and some can be hurt, and bargaining and strategies can be taken to survive. If the family is so, then every other group-including church-will surely have such an aspect.
At times, you may be violent and try to control your opponent. You may not be aware of it, or you may be aware of it but cannot stop it. Sometimes you may be blaming yourself or giving up while being hurt by such a person. There may be times when you can only live by enduring it.
However, the Lord Jesus shows a way of life different from that. We are neither swallowed by violence or domination, nor endure those. It is a way to live by resisting both of them. Jesus does not like fake peace. He sees people who are hurt and fallen behind him, and sinful people who have broken their relationships with others.
Jesus lived against the power to take in himself. At the same time, He lived against all the forces for those who have already been taken in. He just followed God's thought and continued to walk toward the original peace that God envisions. He sought repentance from those who disobey it, or preached the gospel to those who have given it up and shows us a new way of life for us to create peace.
Gain life according to the Lord
The Lord Jesus loves and cherishes me. He calls my name, finds me, listens to my prayers, and He is with me. What will you do if the Lord Jesus tells you to follow Him? You probably want to follow the Lord Jesus. It also means living with the Lord Jesus by resisting the power to attack and threaten people's lives.
Jesus demanded that we love him more than our parents and children. To love Jesus is to carry your own cross and obey Jesus. It requires a reasonable decision.
What is your cross? If you have tried to protect yourself by violence or control, that is your cross. If you think it's not a big deal or forget it, that doesn't mean it wasn't there. Carrying your own cross involves facing how much you have hurt others, repenting and apologizing for it. There is no guarantee that you will be forgiven, but trying to go through such a process will result in carrying your cross and following the Lord Jesus.
On the other hand, if you have been hurt, that may be your cross. Until now, you may have survived by enduring it or looking away from it. If you still obey the Lord Jesus, you will walk the path of living with the Lord Jesus against it. You need to prepare for it. You also need help. Even so, if you do not stay in the apparent peace, and even if you sometimes cause divisions and conflicts, you talk about your thoughts, listen to the thoughts of the other person, and walk the process of peace with the Lord Jesus toward the future.
It's a completely different way of life than you've been trying to gain your own life. A way of life where you resist seems like a life-threatening and dangerous way, and it is a really dangerous way. It's not a way without waves, but a way where storms are blowing. However, if we continue to walk there following the Lord Jesus, we will gain life instead.
One day, time will come when I truly feel that I have gained life. The Lord Jesus has promised that to us, and he will live to resist before us, invite us, and walk with us. Believing that, we will also carry a cross of our own on our back and follow the Lord.
Pastor Nozomu Sugiyama
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