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追いつめられた一人に

fsHHによるPixabayからの画像

今、政府が国会に提出している出入国管理法(入管法)の改正案について、弁護士や人権団体からの批判が集まっています。日本は難民認定率が諸外国と比較しても非常に低く、入管に長期間収容されるケースが多いことが、国際社会から問題視されてきました。入管では死亡事故や病死も繰り返されており、2019年6月には長崎県の大村入管で、長期収容に抗議してハンガーストライキ中だったナイジェリア人男性が餓死しました。今回の改正案はこの事件をきっかけに作られたものですが、排除の方向を強める内容になっていることに懸念の声が出ているのです。

 

そもそも法とはどのようなものなのでしょうか。『打ち捨てられた者の「憲法」』(齊藤小百合著、いのちのことば社)の中で紹介されていた『誰のために法は生まれたか』という本によると、「グルになっている集団(=徒党、犠牲強要型の集団)」に抵抗するためにこそ法はあり、「グルになっている集団を徹底的に解体して、追いつめられた一人の人に徹底的に肩入れするのが、本来の法」だといいます。一方で、日本では「法とは社会の秩序を守るために国が決めて、国民を縛るルールだ」という受け止め方が多い、と齊藤氏は指摘しています。そこには法や人権に対する理解の違いがあります。

 

齊藤氏は、「追いつめられた一人」ということが、ルカ福音書15章の「失われた一匹の羊」を思い起こさせると言っておられます。百匹の集団から離れてしまった一匹の羊は、自ら好んでそこから離れたわけではないでしょう。むしろそれは、「社会のひずみの中で差別され、人間らしく扱われることもなく、社会構造的に弱くされた存在」を表しているように見えます。そのような一人に肩入れするような法の在り方は、イエスが語り伝えた神の国への方向性と重なります。

 

先週7日に、弁護士や著名人の有志が、入管法の改正案の廃案を求めるアピールを行いました。その中である弁護士が、「誰かの人権が守られていない社会では、実は誰も人間扱いされていません。みんなが立場が弱くなったときにそれに気がつきます。こんな社会はを次世代に私たちは渡すのでしょうか」と訴えていました。聖書は誰もが例外なく神に似せて造られ、神に愛されていると告げています。旧約聖書では、寄留者をもてなし、守ることが繰り返し求められています。だからこそ、教会は排除には抗議し、共生に向かうことを求めるのです。