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『空腹な人がいない世界へ』マタイによる福音書25章34~36、40節

札幌バプテスト教会 会堂

※3月14日に、前任地である札幌バプテスト教会と金沢キリスト教会との交換講壇を、Zoom(WEB会議システム)を用いて行いました。以下に掲載するのは札幌教会の礼拝で取り次いだ説教です。

子どもメッセージ

みなさん、お久しぶりです。元気にしていましたか? 体は元気でも、この一年、大変なことがいっぱいありましたね。本当は札幌まで出かけていって、みんなの話も聞きたいけれども、そうすることができません。遠くから、祈るだけしかできないけれど、祈っています。

私は遠くにいるけれど、いつでもみんなと一緒にいてくださるイエス様が、こんなことを言っていました。

「わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さな人の一人にしたのは、わたしにしてくれたことですよ。」

最も小さな人ってどんな人かというと、それはお腹を空かせている人、喉が渇いている人、旅をしていて泊まるところがない人、着る物がなくて寒い思いをしている人、病気のために一人で寝ている人、捕まえられて自由がない人です。こんな人たちに、食べ物や水をあげたり、家に泊めてあげたり、訪ねていったりしたとき、それをイエス様は自分にしてくれたことだと思うのです。イエス様にとって、最も小さな人――困っていたり、苦しんでいたりする人――は、自分のことのように思えるのです。

お腹を空かせている人にごはんをあげる人って、どんな人のことでしょうか。たくさんのお金をもっていて、毎日高級レストランで食事をしている人が、食べ切れなかったパンをお腹を空かせている人にあげたとしたら、それはどうでしょうか? イエス様はその人のことをうれしく思うかな?

私はこのお話を読んで、マザー・テレサさんが出会った人のことを思い出しました。マザー・テレサさんはインドに行って、貧しい人たちを助け、心からの愛を注いだ人です。ある夜、マザーのところに、一人の男性が訪ねてきました。彼は、「8人の子どもがいるヒンズー教徒の家族がいるけれど、この何日もの間、何も食べていないのです」と言いました。そこでマザーは一食分のお米をもって、そのヒンズー教徒の家に行きました。家の中には、がりがりに痩せてしまった子どもたちがいました。

その子どもたちのお母さんは、マザーからお米を受け取ると、それを半分に分けました。そして、半分のお米をもって家から出ていきました。しばらくして戻ってきたお母さんに、マザーは聞きました。「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか?」 するとその家のお母さんは答えました。「あの人たちもお腹を空かしているのです」。あの人たちというのは、隣りに住んでいるイスラム教徒の家族のことでした。その家にも8人の子どもがいて、同じように食べるものがなかったのでした。

このヒンズー教徒のお母さんのことを知って、私はとても驚きました。同じようなときに、自分もそうできるかな……、いや、とてもできそうにないな、と思います。自分や家族がお腹を空かせているときに、そのわずかなものを隣の人に分けてあげる。半分になったお米だと、自分の家族もお腹いっぱいにはなりません。それでも、隣りの人のことを思って、わずかなものを分けてあげた。

私は、イエス様が言っていた人、「最も小さい者のひとりに」ご飯をあげた人というのは、こういう人のことなのではないか、と思います。それに、イエス様もこのような人でした。たくさん持っている中からほんの一部をあげるのではなくて、そんなに多くもっていないけれど、持っているものを分ける人。そんな人は、神様に喜ばれ、神様から祝福されて、イエス様と一緒に神の国を受け継ぐのです。

そんな人に出会うと、私たちの心に神様の愛が注がれます。イエス様の愛がわかります。そうすると、私たちもイエス様がしたようなことを、小さなことでもするようになります。そんな人が集まると、もう少し大きなことができるようになります。もっと集まると、社会が変わっていきます。そんな風にして、世界は小さなところから大きなところまで変えられていきます。

この世界にはひどいことがたくさん起きます。辛く、苦しい思いをしている人もたくさんいます。それでも、この世界は何度も良くなってきました。これからももっと良くなっていくことができます。イエス様が今も私たちを、世界の人たちを導いてくださいます。イエス様と一緒に歩いて行きましょう。神様が祝福を受け、この世に現される神の国を目指して生きていきましょう。

 

誰もが神の国への道に招かれている

神様に祝福された人、神の国を受け継ぐ人とはどのような人でしょうか。それはこの世の価値観には反するものです。イエス様はこのようにおっしゃいました。「お腹を空かせている人に食事を与え、喉が渇いている人に水を飲ませ、泊まるところがない旅人に宿を貸し、裸で凍えている人に服を着せ、病気に伏せている人を見舞い、牢獄に捕らわれた人を尋ねる人、そのような人たちが神様に祝福された人である。」

エス様はまさにそのようなお方でした。イエス様のように生きる人が神様に祝福された人です。ただしこの「祝福された人」とはクリスチャンだけに限られてはいません。ここで集められた人は「すべての国民」だからです。神様の祝福は、宗教も人種も年齢も性別も越えて届けられます。クリスチャンが祝福されているのは、イエス様に出会わされ、新しくされており、イエス様に倣おうとするからです。イエス様のように行う人は、その人がイエス様に倣おうと思っていなかったとしても、神様に祝福され、神の国を受け継ぐ人です。

私はそのことにとても希望を抱きます。私たちクリスチャンは、神の国を目指して歩みます。この世にも神の国が現わされることを願い求めます。ただその歩みを、クリスチャンだけで歩まなくてもいいのです。信仰が違っても、様々な違いをもっていても、イエス様が現わされた神の国に向かう人たちとは、共に歩んでいくことができるからです。

神の国は全ての人に向けて開かれています。イエス様との出会いを与えられ、新しい生命を与えられることはクリスチャンにとって特別な祝福です。けれども、神の国へと向かう道は誰もが歩むことができる道、誰もが招かれている道です。様々な違いをもった人々が共に祝福を受ける、そんな神の国への希望が示されています。

 

神の国の姿

今日の箇所からも、神の国がどのようなものであるか、ということが想像することができます。つまり神の国は、「空腹のときに食べ物を与えられ、渇いているときに飲み物を与えられ、泊まるところがないときに宿を貸してもらえ、裸であるときに衣服を与えられ、病気のときに見舞われ、牢獄に捕らわれたときに尋ねてもらえる」ところです。このようなことが行われるところには、神の国の片鱗が現れます。

“とよひら食堂”は、まさにそのような働きでしょう。昨年からは札幌教会も“とよひら食堂”の弁当配布に加わったと伺っています。札幌豊平教会では、2016年から教会を解放し、路上で生活している方や、生活保護を受けている方と温かい食事を共にしてこられました。コロナの感染が広まってからは弁当配布に切り替えましたが、その働きをずっと続けておられます。

豊平教会の稲生先生がキリスト新聞の取材に応えておられました。

「私たちが食事を提供する最大の目的は、安心して憩える場所、ここが自分の場所だと思ってもらえる場を作ることです。……一人ひとりがここで癒やされて、自分の力で『よし、もう一度がんばろう』と立ち上がるまでのきっかけづくりだと思っています。」

「忘れがちですが、自分ひとりの力で生きている人は1人もいません。誰もが誰かに助けられて育ち、生きています。助けを求めること、そして助けることは恥ずかしいことではありません。」

神の国は、誰もが助けを必要としなくなること、自己責任で、自助努力で生きることではありません。助けを必要とするときに、誰もが誰かに助けられる。助けられることで再び力を受けて、もう一度立ち上がることができる。そのような繋がりの中に神の国が現れます。

 

神の国を妨害する呪いの力

人類は豊かになってきました。食糧のことで言えば、今や人口は77億人にもなりましたが、そのすべての人が十分に食べられるだけの食糧が作られています。様々な働きを通して、十分な食事が食べられるようになった人たち、安全な水が飲めるようになった人たち、学校に行けるようになった子どもたちがいます。この世界には良くなっていることもあります。

一方で、コロナ危機と気候変動によって、数百万人が飢餓によって命を落としかねない状況になっています。その間に、世界の超富裕層は資産を大きく増やしたそうです。マタイ福音書には「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(13章12節)という当時の格言が残されています。この個所から、小さな格差が次第に大きな格差になっていくことは、「マタイ効果」と呼ばれています。

マタイ効果の中でより多くをもった人たちが、その一部を寄付するようなことが、しばしばニュースに取り上げられますが、私にはその姿が神の国と重なりません。持っている人が持っていない人からさらに取り上げるような社会体制は、イエス様が立ち向かわれたものであり、イエス様の働きに抵抗し、その命まで奪ったものだからです。

エス様はこのようにもおっしゃっています。

「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである。」(25:41~43、『聖書 口語訳』)

この呪いの言葉は、既に多くを持ちながら、さらに多くを求め、時折その一部を施すことで罪悪感から逃れようとする人に向けられた、非常に厳しい、しかし真剣なイエス様からの批判です。

しかしイエス様は、その呪いさえ十字架で負われました。神の国の到来に抵抗する者たちによって、罵られ、辱められ、十字架に架けられたのです。その十字架の死は私たちのためのものです。私たちを捉えようとするこの呪い、悪魔の力と思えるようなこの呪いから、私たちを自由にするために、私たちが神の国へ向かって歩みだす勇気を得るように、イエス様は十字架にかかってくださいました。

そして、死は終わりではありませんでした。主イエスは三日目によみがえられました。神の国をもたらそうとするイエス様の働きは終わっていません。神の国へ向かう歩みは止まっておらず、その約束は私たちに与えられた希望として新たに与えられたのです。

 

空腹な人がいない世界へ向かって

最近、とても興味深い研究を知りました。それは「3.5%の法則」と呼ばれるものです。ハーバード大学のエリカ・チェノウェス教授は、過去200年の社会運動を研究しました。どの運動も始めは小さなものが、だんだんと大きな運動になっていきますが、全体の3.5%の人が活発に運動に参加したものは、どれも社会に大きな変革をもたらしていました。しかも、暴力的な抵抗運動よりも、非暴力的な行動の方が2倍も成功していた、といいます。

たったの3.5%です。神の国へと向かう様々な運動も、そこに3.5%の人が加わった時に、より広く神の国が現わされていくのです。もちろんそれも簡単なことではありませんが、3.5%ならできそうな気がしてきます。

世界は何度も変わってきました。たとえ今、この世界がひどいものであっても、神の国へと向かってまた新しくなることができます。ただそのためには、神の国へと向かうイエス様に従っていく人が必要です。イエス様はこの世界の全てに神の国を表すまで、その歩みを止めません。私たちの生涯の中で、それは完成するものではありませんが、私たちもその道を、主イエスに従って、主イエスと共に、主イエスに導かれて歩みたいと思うのです。

神の国は、誰も取り残されない、空腹な人がいない世界です。イエス様が現わしてくださった神の国の姿を心に刻み、それを道しるべとして歩んでいきます。信仰が異なる人たちとも、私たちは協力して、共にこの道を歩みます。小さなことから始まったことが、次第に大きくなっていき、社会を動かすものに繋がっていくものもあるでしょう。その道の途上で示された神の国の片鱗を喜びながら、神様の祝福を受け、またそれを分かち合っていきましょう。

 

牧師 杉山望