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必要なものが与えられますように

CouleurによるPixabayからの画像

宗教は精神のことを扱うけれども、物質には関心がないと理解されることがあるかもしれません。ところが、聖書が証しする神様は、人が生きるために必要な物質のことをとても気にかけてくださる方です。例えば、イスラエルの民が神様に導かれ、エジプトから脱出し、40年の間、荒れ野で旅をすることになったとき、神様は人々にパンと水を与えました。この荒れ野での経験は、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)、と言われています。イエス様も引用されたこの言葉は、物質(パン)が不要であることを意味していたのではありませんでした。この後、イスラエルの民は神様によって良い土地に導き入れられます。そこは「平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。」(申命記8:7~1

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イギリスで行われた調査によると、貧困は、物質的な面だけでなく、精神をも蝕むことが明らかになりました。「貧困の子どもの多くは友人たちと会うことや社会イベントにも一緒に参加できないことから、貧困によって友人関係が損なわれたと感じ、友人たちから排除される危険を大きく感じていることがわかりました。また貧しいことで他人と違って見られ、それゆえに社会的制裁を受けることへの恐怖や自分の将来や人生に対してうまくやれないのではないかという不安、社会に溶け込むことに対する不安などを抱えていることがわかりました。つまり、貧困の子どもにとっては物質的な事柄に対する不満や欲求だけでなく、もっとも恐れているのは他者との関係性や居場所についての不安であることが明らかになったのです。」(『奪われる子どもたち――貧困から考える子どもの権利の話』、富坂キリスト教センター、2020年、教文館)

 

イエス様が教えた主の祈りにおいても、「必要な糧」が与えられることを願います。私たち人間は、必要が満たされるために、毎日でも祈ってよいのです。神様が与えようとする豊かさは、過剰生産や浪費とは異なりますが、人が生きることに結びついたものなのです。