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独りでは自分は作れない

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西南学院大学(福岡市)の機関誌“Spirit”に神学部の日原広志准教授の言葉が掲載されていました。「友人とは、どのような存在ですか?」という問いに対して、学生向けに書いた言葉ですが、聖書の人間観の一つとして興味深いものでしたので、その一部を引用させていただきます。

 

「旧約聖書では、神は人間に友人を作ることを要求していません。『友人はこの世の人間関係の一つ』と示し、友人の存在を特別に理想化せず、極めてニュートラルに捉えています。つまり、たかが友人であり、『友達はいらない』という考え方も一つの選択肢といえるでしょう。

 

一方で、それでも『人が独りでいるのは良くない』(人間は“顔と顔を合わせる”関係性を必要とする存在だ)とも旧約聖書では語っています。そもそもヘブライ語で『顔』は複数形とされ、人間の顔は旧約聖書の中では『顔顔』と表現されます。つまり、顔は自分で鏡を見ていても作ることはできず、他者に出会って空間を共有することで自分の『顔顔』が作られるということです。『されど友人』という思想が旧約聖書には込められています。

 

また、旧約聖書には、人間集団からはじかれた義人が、『野生動物の友になってしまった』という自虐の詩が収められています。古代では村などの共同体から疎外された人間は人間としてみなされませんでした。それゆえ、先述の彼は『自分の友は野生動物だけだ』と嘆くのです。しかし、ここにも深い真理が宿っています。なぜなら、神は人間の最初の友として被造物(生物)を創造したので、人が人間界からこぼれ落ちても生きていくことができるのは、被造物の世界が受け止めてくれているからであり、実はそこに『救い』があるのです。このことは私たちが生きる現代にも通じています。例えば、学内で友人ができなくても、学外には心を許す友人がいる。つまり、属しているコミュニティーだけが人間関係の全てではないのです。」

 

新型コロナウイルスの感染予防のために、顔と顔を合わせる機会や時間が減ってしまいました。けれども人間には、空間を共有することが必要です。私たちは人の繋がり方が多様になった時代に生きていますが、教会が顔と顔を合わせて空間を共有する場であること、それと共にすべての人の友となったイエスのことを伝えることは、これからも大切にしたいと思います。