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寄り添ってくださる神

articgoneapeによるPixabayからの画像

政府が推進していた「GoToトラベル」を全国一斉停止することを発表した日、菅首相は銀座の高級ステーキ店で著名人との忘年会に出席しました。国民に“自粛”を求め、「5人以上の会食は控えるように」との呼びかけもなされていました。新型コロナウイルス対応の最前線に立つ医療従事者のボーナスが40%も引き下げられる中で、一人6万円ともいわれる高級店に行く首相の行動は、まるで自分たちは自粛を呼びかける「国民」とは違う存在なのだと思っているかのように見えます。

 

権力者と国民との間の深刻な分断は今に始まったことではありませんが、日本ではその穴埋めを天皇が行ってきました。天皇が「国民に寄り添う」ことを自身の務めとして語り、被災地などを訪問することによって、国民の間には「天皇は私たちの気持ちをわかってくれる」という印象が作られてきました。しかしそれは問題を解決するものではなく、むしろそれを覆い隠す働きをしています。

 

「心も体も疲れ果てた被災者たちが詰め込まれた体育館に、天皇・皇族が訪問しました。日本国が戦争の犠牲者を靖国の神として祀り、天皇が靖国神社を参拝すると、遺族たちは感慨にふけり、悲しみの気持ちが喜びに変わってしまうという英霊顕彰のトリックと同様の行為です。天皇の行為は、問題の本質である政府・政治家・財界人の復興政策・原発政策の過ちと責任を覆い隠します。」(『わたしたちは天皇制をなぜ問題にするのか 天皇の代替わり問題とキリスト教Q&A』より)

 

天皇は「日本国民」ではなく、憲法に定められた人権が認められません。「普通の人間」として生きることを許されないことには同情も感じますし、そこからの解放も必要でしょう。天皇もまた救いを必要とする「罪人」なのです。多額の税金によって守られた彼らは、決して「飼い葉桶」に寝かされることはありません。どれほど「寄り添う」と言っても彼らは「皇居」におり、彼ら・彼女らの誕生の知らせを差別されていた「羊飼い」が真っ先に聞き、お祝いにかけつけることはあり得ないのです。

 

「キリストは、神の身分でありながら、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2:6~8) イエス・キリストは、この世の政治家・財界人とも、天皇とも全く異なります。このお方こそ、私たちに寄り添い、私たちと共に生きてくださる神の子です。