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葬儀と信仰

S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像

仏式の葬儀に出席したときに、お焼香をどうするか困ったことがあります。その作法を知らないということもありますが、キリスト者としてそれをしていいのかどうか迷ったからです。聖書の十戒では、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない。……それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられています(出エジプト記20章)。いわゆる“偶像崇拝”は、聖書が繰り返し固く禁じるものです。迷った私は、形だけお焼香をしたこともありますし、何となくやり過ごしたこともあります。

 

前任地である札幌教会で、葬儀の司式を何度か経験しました。葬儀には教会の礼拝に来たことのない方も多く参列します。親族のほとんどがクリスチャンではないことも珍しくありません。キリスト教の葬儀は礼拝として執り行われますので、讃美歌も歌いますし、お祈りもします。聖書を読み、牧師の式辞も述べられます。参列者による献花も行いました。参列者は「葬儀」に来たのであって、「礼拝」に来ようと思ったのではありません。そこは普段の礼拝と大きく違うところであり、参列者にどのように受け取られるかと緊張しながら司式をしていました。それでも、参列した方々は教会の葬儀を尊重し、讃美歌も(歌えるものであれば)歌い、祈りも合わせてくださいました。

 

イエス様は、旧約聖書の律法を総括することとして、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と教えられました。インドで人々に仕えたマザー・テレサは、ヒンドゥー教の神殿の境内にあるホールを提供してもらい、行き倒れの人たちを保護する「死を待つ人の家」を作りました。彼女は、そこに運ばれてきた人がヒンドゥー教徒であればガンジス川の水で口を濡らし、イスラム教徒であればコーランを読んだそうです。

 

私はキリスト教の葬儀に参列した方が、それぞれがどのような信仰をもっていたとしても、その礼拝としての葬儀を尊重し、讃美や祈りを合わせてもらいたいと思います。そうであるならば、私が他の宗教の葬儀に参列したときには、その作法を尊重してよいし、そうすべきなのだと、今では考えています。もちろん、それは形式に従うことであって、他の神々に心から祈ることではありません。しかしそうすることで、故人やご遺族を尊重することは、キリスト者にとっても大切なことだと思うのです。

コメント: 1
  • #1

    森岡智恵子 (日曜日, 08 11月 2020 16:20)

    杉山先生
    今日の巻頭言で私も「それでいいのだ、私たちは、キリスト教の人達だけの社会に生きているわけではなく、その他の信仰の人たちの中で生活しており、そこから受ける手助けの方が、はるかに多い社会に生きている。そこで、かたくなになる必要はない。日本の宗教は習慣であり、つながりなのだ。」と思っていました。
    むろん進んで、神社やお寺に参りに行くことはありませんが、旅先で美術や工芸、歴史を知るために行くことはあります。
    また、今でも、田舎の集落の寺やお宮の行事には、自分が当番になった時にはお世話もします。(その他の時には隠れていますが。()
    高校3年の時に死んだ私の父の仏式の葬式にも、洗礼を授けてくれた石島牧師は、紋付き羽織袴で参列してくれました。私は家族の中でただ一人のクリスチャンでしたが、家族も皆、その様子に喜んでいました。
    私の葬儀の時には、クリスチャンでない方々にたくさん来てもらい、キリスト教に触れる機会として「証し」になればいいなあと思っています。