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迷惑をかけないことよりも

RitaEによるPixabayからの画像

紀元1世紀頃のユダヤ・パレスチナは、圧倒的な格差社会でした。人口の1~2%の少数の支配者が富と権力を独占し、残りの98%の人々を抑圧し、搾取する構造が出来上がっていました。イエス様が育ち、活動の中心となったガリラヤの人々は、何重にも搾取され、社会の底辺で生きざるを得ない農民や漁民が大半でした。十分に食べることもできず、幼くして命を落とす子どもも多く、借金のために家族が引き裂かれることもありました。それでもガリラヤの人々は家族・親族や村の共同体の中で絆を強めて助け合ってたくましく、したたかに生きていました。神様に与えられた律法も、困窮者・社会的弱者への配慮が散りばめられており、助け合う共同体・社会を作る方向性をもっていました。

 

日本社会が「一億総中流」だと言われていたのは、もはや過去のことになりました。今では「格差社会」を超えた「階級社会」となっていると指摘されています。生活保護基準程度で暮らす“アンダークラス”と呼ばれる階層が増えており、新型コロナによる経済的なダメージも、低い階層ほど深刻な影響を受けています。ある意味、格差という面では紀元1世紀のユダヤ社会に近づいているとも言えますが、助け合うということに関してはどうでしょうか。

 

日本では「他人に迷惑をかけてはいけない」と言われて育った人が少なくないでしょう。しかしそれが、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」となれば、困っている人を見向きもせずに自分勝手なことをする人となるかもしれません。逆に、困っているときにも「他人に迷惑をかければ非難される」と思い、一人で抱え込んでしまうかもしれません。他の国では「迷惑をかけない」ことを教えるのではなく、代わりに「困っている人を助けなさい」と教えることが多い、といいます。人は一人で生きることはできません。助け会う関係、困ったときには支えられる社会こそ、目指すべきものではないでしょうか。