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『すべての出来事に時がある』コヘレトの言葉3章1~15節

コヘレトの探求

 

コヘレトは人生の意味と目的を探求した人物でした。「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」(1:13)、と彼は語ります。彼は、「太陽の下に起こることをすべて見きわめた」が、「どれもみな空しく、風を負うようなことであった」(1:14)と言います。そのため、コヘレトの言葉には、「空しさ」や、「空(くう)」ということが繰り返されます。

 

コヘレトは資産家であり、あらゆることを実行し、また知恵を探求することができる人でした。ただ、彼の言葉は金持ち目線の言葉ではありません。彼と同じ時代に生き、日常の労苦に疲れ果て、生活の不安に苛まれ、正義が蔑ろにされることに失望しきっていた庶民の感じていたことを、コヘレトは知っていました。彼が語る空しさは、人生に労苦しながら、その人生の意味や目的を問う人々が感じていた空しさでもあったのです。

 

コヘレトの言葉は、彼が辿った探求の道そのものです。そのために、この書物の中には矛盾するような言葉も見つかります。ああでもない、こうでもないと思考を巡らしながら、コヘレトは人生の意味、その人生の中で起こる出来事の意味を探っていきました。

 

そんなコヘレトが見出したことの一つが、「すべての出来事には時がある」、ということでした。

 「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)

ここでは「定められた時がある」と訳されていますが、それはこれから先、いつ何が起こるかということが、全て決まっているということではありません。つまり、「西暦2020年に新型コロナウイルスが世界中で感染を広げる」ということが決まっていた、ということではありません。

 

時というのは、何かの事が起こされる時期や時点のことです。コヘレトは3章2節から8節にかけて、14対の対照的な行為を挙げています。その中には、私たちにとって望ましいことや、私たちが求めることもあれば、望ましくないことや避けようとすることもあります。それらの出来事が、私の人生において起こり、人類の歴史において起こります。それらの出来事は、私の人生の時間の中にも、人類の歴史の中にも、場所をもっている、ということを、コヘレトは見出したのです。

 

 

対照的な行動のリスト

 

コヘレトは、この対照的な行動を並べながら、そのどちらかがよい選択である、とは言っていません。ある時には望ましくないと見られることも、他のときにはふさわしい行為になることもあります。

 

例えば、3節の「破壊する時、建てる時」というのは、家や町が壊されるときと、それを新しく建てたり、再建したりするときのことでしょう。お隣の福井教会では、明日7日から会堂の取り壊し工事が始まります。会堂建築の予定があるわけではなく、老朽化対策のための取り壊しです。それでも私は、これは終わりではなく、新しいことの始まりだと感じます。神様が新しいことを起こされる場所を作るという意味で、破壊する時でありながら、期待と希望の時です。

 

4節の「泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時」ということを比べれば、笑うことと踊ることの方が望ましいことだと思います。けれども、泣くことや嘆くことがふさわしいこともあります。無理をして笑うよりも、泣く方がいい時があります。大切なものを失ったときには、踊って発散することもあるかもしれませんが、思いっきり嘆くこともよいでしょう。新約聖書には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12:15)、ということも書かれています。喜ぶことがよい時もあり、泣くことがよい時もあるのです。

 

5節では、「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」とあります。先日、ある方からこの箇所を示されて、私もはっとさせられました。これは今、私たちが置かれた状況そのものです。コヘレトが感染症対策のことを考えていたわけではないでしょうけれども、人と距離を縮めることもあれば、距離を取ることもあり、そのどちらもふさわしい時があります。

 

8節には、「愛する時、憎む時」とあります。先々週もお話ししたように、聖書における「愛」や「憎しみ」の意味は、感情的な好意や嫌悪感というよりは、相手と関わるか、離れるか、ということにあります。ここでも、私たちはいつどんなときでも、誰とでも関わり続けるわけではなく、時には距離を置いたり、関係を変えたりすることもあります。そのどちらかがいつも正解なのではなく、それぞれに時があるのです。

 

コヘレトが挙げた対照的な行動のリストは、どちらか一方をいつも選べばいいという二者択一のリストではありません。私たちはどちらにも固定されず、あるときはこちらを選び、あるときはその反対を選びます。私たちが選ぶのではなくても、そのように強いられることもあります。私たちの人生においても、また人類の歴史においても、これらの時があり、私たちはその間を行ったり来たりしながら生きています。

 

 

揺れ動く人間と、変わることのない神様

 

これらの時について、コヘレトが知ったことは、人が時をコントロールできるわけではなく、かといって偶然が世界を支配しているのでもなく、神様が時を定め、この世界を支えておられる、ということです。

 

「わたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。

 神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」(3:14)

 

私たちはあちらからこちらへ、またその反対へと揺れ動きます。けれども、神様は永遠に不変であり、揺れ動く私たちをしっかりと支え守っておられます。私たちは自らが望むように時を定めることができなかったり、ふさわしい時を見出すことができなかったりします。けれども神様はふさわしい時を知り、時宜にかなうように神様の意志を現わされるのです。

 

神様は私たちに「永遠を思う心」(3:11)をお与えになりました。そのため、私たちは本能の赴くままに行動をするのではなく、相対する行動のどちらを選ぶか、考えます。神様のように時を見出し、ふさわしいことを選ぼうとするのです。けれども、私たちには「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:11)ということを、コヘレトは知りました。私たちは神になることはできないのです。

 

もし人生が、数学の問題を解くように、一本の道を進んでいくものであれば、私たちの労苦は少なくなるでしょう。けれども実際は、選択の連続であり、自分が前進しているのか、後退しているのかもわからなくなることもあります。ある時は行ったり来たりして、またある時はぐるぐると回って、進む方向が定まらない、ということは人にとってストレスになります。

 

それこそが、神様によって定められたことなのだ、とコヘレトは語るのです。私たちは神様の意志をすべて理解することはできない。けれども神様の意志を求め、それをわずかながらでも知って、よりふさわしいものを選び取っていく。それが人間の限界であり、同時に人間の可能性です。私たちは神様のようになれるのではなく、神様の意志を求めて生きるのです。

 

コヘレトは「神が人の子らにお与えになった務めを見極めた」(3:10)と言います。その務めとは、人に苦労させる営みです。私たちは常に何かを得ようとして労苦しています。何かを得ようとするときには、コヘレトが挙げた時のリストを行ったり来たりしながら、時に永遠を感じ取り、神様の意志を知り、ふさわしいものを選び取ることができますし、そうではないときもあります。しかしそのどちらであっても、神様は変わることなく存在し、右往左往する私たちを支えていてくださいます。私たちが揺れ動くものとして定められたのは、他でもない神様だからです。

 

 

労苦の内に幸せを見出す賜物

 

コヘレトはこの探求の中で、幸せのありかも見出しました。新しい聖書の翻訳では、12節と13節がこのように訳されています。

 

「私は知った。一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に 人の子らに幸せはない。

 また、すべての人は食べ、飲み/あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。

 これこそが神の賜物である。」

(コヘレトの言葉3章12~13節 『聖書 聖書協会共同訳』(c)日本聖書協会)

 

神様は、私たちに労苦する務めも与えました。それは人間が神様のかたちとして作られたことでもあり、人間が神様を求めて生きることでもあったでしょう。しかし神様が私たちに与えたものは労苦だけではありません。神様は喜び、幸せを造り出すことも私たちに与えてくださいました。

 

その喜びは、食べて飲むという素朴なところに見出すことができます。日常の中で、喜びや楽しみをもち、また見出していくことは、私たちに必要なことです。様々なことが自粛される中にあっても、そのことは変わりません。むしろ、労苦の内にこそ、幸せを見出していくことが必要です。私たちには、それができるはずです。幸せを見出すということを、神様が賜物として与えてくださったからです。

 

私たちが負う労苦そのものが喜びや幸せになるとは限りません。それでも、労苦がなくならなければ、喜びや幸せが見出せないわけでもないのです。喜びや幸せを日々の中に見出し、さらにはそれを造り出すことを、神様は賜物として私たちに与えてくださいました。この賜物を見失ったり、奪われたりしているならば、それは取り戻さなければならないでしょう。

 

私たちには労苦が絶えません。しかし神様は、一生の間、私たちが喜び、幸せを造り出すことを願っておられます。食べて飲み、労苦の中にあっても幸せを見出すことができるように、神様は賜物を与えてくださいました。その神様に与えられた労苦ならば、神様に支えられ、喜びや幸せも見出しながら、与えられた労苦を担っていくのです。

 

(2020年9月6日/牧師・杉山望)