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『平和は川のように』イザヤ書48章17~19節

平和を具体的にイメージする

 

「平和」という言葉を聞いたときに、皆さんはどのようなことをイメージするでしょうか。ある人は、「戦争をイメージすることは簡単だけれども、平和をイメージすることは難しい」と言います。そのことの例として、彼はインターネットで検索した画像の違いを挙げていました。「戦争」と検索したときには、兵士や傷ついた人々、戦闘機や爆発など、具体的な写真が出てきます。一方、「平和」と検索したときには、オリーブをくわえた鳩や手をつないで輪を作った人、ピースサインなどのイラストのように抽象的なものが出てきますが、具体的なものはほとんどありません。

 

このような検索の結果は、私が「戦争」や「平和」という言葉を聞いたときに思い浮かべるイメージと重なっていました。戦争については具体的なことを思い浮かべるけれど、平和については具体的なイメージをもつことが難しい、ということは、多くの人に共有されていることなのかもしれません。

 

イメージの違いは影響力の差にもなります。具体的なことを連想しやすい「戦争」は、人々の恐怖心を煽り、敵対心をもたせやすくなっています。他方で、「平和」は具体的なイメージをもちにくいために、それが現実のものとなることへの希望を持ち続けることが難しくなり、具体的な行動が起こされにくくなります。

 

「平和は大事だ」、「平和を守ろう」と共に語り合っていても、私とあなたでは「平和」という言葉でイメージすることが違っているかもしれません。平和を作り出すためには、「平和」のイメージを具体化していくことが必要です。どのようなことが誰にとっての平和であるのか、という具体的な平和のイメージをもち、それを話し合い、共有していくことが、平和を作るために必要なことです。それも、自分と違いをもった人たちと共有できる平和の具体的なイメージを作っていかなければならないのです。

 

 

洪水も起こす穏やかではない川

 

平和のイメージを作るとき、神様による平和のイメージとの対話も必要です。聖書を通して伝えられた平和のイメージはいつくもあります。その中の一つが今日の個所にあります。

 

 「あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」(イザヤ48:18)

 

私はこの個所をもとにした讃美歌を、小学生のときに教会で歌っていました。

 「平和 川のように 平和   川のように 平和   川のように 心に」(『平和、川のように』)

 

私はこの讃美歌を歌いながら、「平和が川のようだなんて、変な歌詞だ」と思っていました。「平和」について、日本語の辞書は二つの意味を説明しています。

 

<平和>(goo辞書)

 1.戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。

 2.心配やもめごとがなく、おだやかなこと。

 

「平和」とは穏やかなこととあるように、私の平和のイメージは、「川」というより、波も立っていない静かな湖のイメージでした。しかし、神様による平和は川のようなのです

 

しかもその川は小さな小川ではなく、雄大な大河です。イザヤ書48章は、いわゆる「第二イザヤ」と呼ばれる個所です。その預言は、イスラエルの中心的な人たちがバビロニア帝国の捕虜となっていたときに、バビロニアで告げられたものでした。ですから、ここでの大河とは、あのユーフラテス川のことだと考えられます。

 

ユーフラテス川は、穏やかな川ではありません。毎年のように氾濫し、大洪水を引き起こすこともありました。時には被害を出すこともあったでしょう。けれどもその一方で、川の氾濫によって周囲の土地が肥沃になり、豊かな作物を生み出すことができるようになりました。決して「穏やか」ではない川が、神様による平和のイメージなのです。

 

 

ダイナミックな平和のイメージ

 

旧約聖書が書かれたヘブライ語では、平和は“シャローム”と言います。神様による平和(シャローム)は、自分にとって理想的な状態、平安でいられる状態のことではありません。神様による平和(シャローム)は、神様の意志に適った世界の状態のことです。それは、あらゆる人間、あらゆる都市、あらゆる国民が、さらには動物や地球までもが、神様の目に好ましい状態であることです。

 

平和(シャローム)は、戦争がないことだけを意味しません。貧しい人たち、弱くされた人たちに対して正義が行われ、公平さが保たれていなければ、その国は平和(シャローム)ではありません。神様による平和(シャローム)は、完全にされた状態、満たされた状態を指しているからです。

 

神様は、「あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」と言っておられます。ここで新共同訳が「恵み」と訳した言葉は“ツェダカー”というヘブライ語で、「正義」とか、「公正」という意味の言葉です。大河のようにあふれ出る平和(シャローム)は、正義や公正が海の波のように押し寄せてくることでもあるのです。神様による平和(シャローム)は、正義や公正と結びついており、切り離すことはできません。

 

戦争やもめごとがなく、穏やかであることを平和のイメージとしてもっていると、神様による平和(シャローム)が平和ではないように感じてしまうかもしれません。それは時に心の中の平穏を脅かし、動揺させ、今ある状態を覆そうとすることもあるからです。神様による平和(シャローム)は、まるで大河が川岸を越えてあふれ出すように、海の波が岸に押し寄せるように、私たちに迫ってきます。

 

ここでの平和のイメージは、静かな、留まった状態ではなく、非常にダイナミックなイメージで語られています。神様による平和(シャローム)は、神様が働き、この世で新たな出来事を起こしている状態であり、神様の霊が世界中で自由に動き回っている様子なのです。

 

 

シャロームに背いてきた日本と世界

 

今年の5月に、アメリカで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害される事件が起こりました。この事件への抗議として、全世界へ“Black Lives Matter”(黒人の命も大切だ)という運動が広がりました。その運動は日本でも行われました。

 

しかし先週、黒人男性が警察官に背後から複数回にわたって撃たれるという事件が起こりました。現地では警察への抗議活動が行われていますが、抗議活動はスポーツ界にも広がりました。大リーグやNBA(プロバスケットボール)で選手のボイコットが続き、多くの試合が中止になりました。またテニスでは、準決勝まで勝ち進んでいた大坂なおみ選手が試合のボイコットを表明したため、大会側は27日の試合を中止することになりました。

 

これらのデモや抗議活動は、ある人にとっては自分たちの「平和」を乱されることだと感じられるかもしれません。けれども、「平和は川のようだ」と言われる神様の目から見れば、Black Lives Matterという運動は、平和(シャローム)を作り出すためのものなのではないでしょうか。

 

人種差別や、肌の色での差別は、日本にも根強く残っています。警察官が銃で撃つ、ということはなくても、不要な職務質問によって圧力をかけることは繰り返されていますし、就職などでの差別もなくなってはいません。

 

「戦後75年間、日本は平和だった」と言われますが、それは「戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にある」という意味での平和です。しかし、戦後75年間、日本においても神様による平和(シャローム)は広がってはいません。日本でも、また世界でも、人類は神様による平和(シャローム)に背き続けてきました。

 

 

破滅を避け、神様の御言葉を聞く

 

今日の個所を、他の聖書の訳でもう一度読んでみます。新しく出された「聖書協会共同訳」という聖書です。

 

 「あなたの贖い主、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。

  私は主、あなたの神。

  私はあなたの益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

  私の戒めに耳を傾けさえすれば、あなたの平和は川のようになり、

  あなたの正義は海の波のようになるであろうに。

  あなたの子孫は砂のように、身から出る子らは砂粒のようになるであろうに。

  その名は私の前から絶たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」

(イザヤ書48章17~19節 『聖書 聖書協会共同訳』(c)日本聖書協会)

 

このイザヤの預言を聞いたイスラエルの人々は、敵国バビロンの捕虜となっていました。彼ら・彼女らは国の滅亡を目の当たりにして、平和を失った人たちでした。その彼ら・彼女らに対して、神様は嘆くようにして訴えかけています。あなたたちが、私の戒めに耳を傾けさえすれば、あなたの平和は川のようになり、あなたの正義は波のようになるであろうに。

 

神様の戒めを聞いていれば、あなたがたの受けた苦しみと破滅は避けることができたのだ、と神様は言うのです。神様は繰り返し人々に語りかけました。時には怒りをもって、時には熱情をもって教え諭しました。神様は私たち人間に益となることを教え、私たちの歩むべき道へと導こうとされたのです。しかし、人はそれに背き、苦しみと破滅をもたらしてしまったのです。

 

神様からの教えと諭しは今も私たちに、また世界中の人々に向けて語られているものです。人類が共にその戒めを聞き、それを実行するならば、この世界に平和は川のように溢れ、正義は海の波のように押し寄せてくるのです。どのような境界線も、どのような壁も越えて溢れ、押し寄せてくる神様の平和と正義が、具体的にどのような姿で現れるのか、そのイメージを豊かに膨らませてみましょう。そしてそれを様々な人と分かち合い、神様の戒めを――聖書を通して語られる神様の御言葉を――しっかりと胸に刻みながら、平和を祈り求めて歩みたいと思います。

 

(2020年8月30日/牧師・杉山望)